記憶28 佐藤 武昌さん
戦争を乗り越え
家族全員で家業を再建
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佐藤 武昌さん
さとう・たけまさ/1939年(昭和14年)神奈川県生まれ |
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開戦を2歳で迎えた佐藤さん。空襲が激しくなった昭和20年(1945年)春には、神奈川から北海道へ疎開する。当時、少年の目に映った戦争はどのようなものだったのか。家族は、戦争、そして戦後の混乱をどのように乗り越えていったのか。今も子どもたちに戦争の教訓を伝える佐藤さんにお話を伺った。
冬空の空襲警報、ロウソク1本の防空壕
──佐藤さんは、昭和14年(1939年)の生まれということで、開戦当初はまもなく3歳になろうかという頃、終戦は5歳か6歳で迎えられています。単刀直入にうかがいますが、「戦争の記憶」と聞いて、真っ先に頭によぎることは何ですか?
パッとよぎるのは、やっぱりまず食べ物がなかったということと、空襲ですね。毎晩のように、大きくて不気味なB29が飛んで来ていました。家のそばに高射砲があったのですが、弾が届かないんです。それでB29が爆弾をどんどん落としていく。私の家の近くにはそう落ちなかったのですが、とにかく不気味でした。
寒い時の空襲は覚えています。空襲警報のサイレンが鳴って、夜中に目が覚める。そうすると灯火管制といって、(空襲時に敵機から発見されないようにするため)照明に布きれを掛けて、暗くするわけです。
始終、空襲ですから、夜中に防空壕に入るときのために、子どもでも自分の着るものは寝る前にちゃんと畳んでおく。それで、みんなで防空壕に入りました。中は寒く、ロウソク1本です。畳で壕に蓋をして、その中でじっとしているわけです。
そんな状況ですから、子どもでもおちおち眠っていられない。そして、起きているときは、お腹が空いてる。けれども食べ物がないんです。そういうことが一番に思い出されますね。
サツマイモ、コーリャン──記憶に残る食べ物
──食べ物の思い出を教えていただけますか。
神奈川にいるときは、まだまだ良かったんです。ただ、食べるものは基本的にサツマイモですね。サツマイモの銘柄を結構覚えています。農林1号とか2号とか、太白(たいはく)とか。太白は美味しかったですね。
朝食はパンに温めた牛乳をつけて食べる。バターなんかないです。
うちの父親は軍では大尉で、位としては上の方だったので、北海道へ行ったときは配給があったんです。ただ、あるのはいつも水飴だけ。 ガロン缶というか、四角い缶で送られてきて。小さい頃は、甘いものがほしいんですよね。とにかく一番記憶に残っているのは食べ物ですね。
──やはり食べ物のことがよくお話に出てきますね。いつもお腹が空いた、ひもじいみたいな感じがあったんですね。
ありました、しょっちゅう。本当にガツガツしている感じですよね。でも、親としても子どもに食べさせるものがないんです。お米がないときは、コーリャンとか粟とかヒエを食べました。ただいくらお腹が空いていても本当に美味しくなかった。つまり飼料です、家畜の。ボソボソしてて味がないんです。
こんなこともありました。母方の祖母がうちに手伝いに来ていたときのことです。そのとき、私は風邪をひいて寝込んでいたのですが、突然、私が大きな声で泣き出したんです。具合が悪くなったのかと思って、親が飛んできたのですが、その泣いた理由は何だと思いますか? 祖母はうちに来るときに小豆を持ってきていたんです。それであんこを作ってくれた。その鍋の底にあんこが残っているのを私は見ていたんです。祖母がそのあんこを「食べていいよ」と私の姉に言ったんです。それを聞いて、私はギャっと泣いたんです。
──当時の佐藤さんの感覚は、「いつ死ぬかわからない」というものだったのでしょうか。
毎晩、空襲で起こされて嫌だなという感覚ですね。怖いというのはあったけど、いつ死ぬかわからないというようなものではないですね。子どもですから、そんなものだと思います。
──非常時とはいえ、意外と佐藤少年にとっては、楽しいこともあったのでしょうか。
近所にそんなに家ががたくさんあったわけじゃないから、どうしても兄弟同士で遊ぶことが多かったですね。姉と遊ぶこともあったので、女性がやる編み物だったり、あやとりとかは、かなりできたらしいです。毎日が戦争で嫌だとか、そういう気持ちはなかったですね。そういうものだと思ってました。
不思議に寂しいとか、そういう気持ちもなかったですね。毎日、のどかに遊ぶ時間もあったりして。やっぱり母親が頑張ってたんでしょうね。そう思います。
疎開先の北海道へ
──北海道へは、いつから疎開したのですか。
疎開したのは、6歳ですね。
──では、終戦直前に疎開したということですね。
そうですね。その頃、うちの父親は中国で従軍していました。私の名前は武昌(たけまさ)というのですが、中国の武漢のそばにある武昌(ぶしょう)という地名から取ったんです。父親は自動車部隊(※主に後方部隊から前線への兵器・弾薬・食糧・医薬品などの補給を任務とする部隊)に所属していましたが、その町を陥落させた頃に私が生まれたので。
中国にいる父親にも日本が空襲でひどい目に遭っているという情報が入っていたんじゃないでしょうか。だから家族の安全を考えて、中国から疎開の手配をしたのではないかと思います。
見ず知らずの北海道の親戚を頼って、疎開しました。家族5人で、下はおそらく1歳か、そこいらだと思います。上の子どもは中学の上級くらいでしょう。
最初に行ったのは、旭川の近くにある妹背牛(もせうし/北海道雨竜郡妹背牛町)というところです。母親も見ず知らずの土地ですから、非常に不安を抱えていたと思いますね。戦争というと、母親の姿、大変だったろうなという思いが、すごく記憶にあります。
──疎開先へ向かうときのことは覚えていますか。
覚えています。私は北海道で小学校に入ったんですよね。神奈川で入学前の身体検査とか全部終わって、おそらくそれが2月か、3月。疎開する前の日に親戚の家に泊まって、その泊まった日の夜、そばに爆弾が落とされました。見に行きましたよ。爆弾による穴がすごく広く見えた。まあ5、6メートルか、そんな穴が掘れちゃうんですよね。すごいなという感じでした。
疎開先への移動当日、移動するときに食べるためのおにぎりを親戚が作ってくれました。お昼に上野の駅へ行き、列車を待っていました。そこで、みんなでお昼を食べようとしたのですが、私のおにぎりを浮浪者が触ったんです。
当時、上野駅周辺には大勢の浮浪者がいました。かわいそうですよね。食べ物もない。それで家族から「(おにぎりは浮浪者に)あげちゃいなさい」と言われて、あげてしまいました。それくらい東京が荒んだ状態だったんですね。
──やっぱり、記憶に残っていることは食べ物なんですね。
食べ物ですよ。兄弟で会って話したって、食べ物の話ばかり。だから戦争はしてもらいたくないですね。戦争がなければ、そんなことないわけですから。
戦争の影響が少なかった北海道
──玉音放送は聞いたんですか。
玉音放送は、聞いてないです。北海道は神奈川と違って、空襲の飛行機もまず飛んでこない。空襲がないんです。のどかな農村地帯で。それはいいことだけど、食べ物は神奈川よりもなかった。
──佐藤さんの記憶の中で、戦争が終わったというのは、いつになるのでしょうか。
北海道へ行って、空襲もなく、こんなところがあるんだなと思って、知らないうちに終戦していたということなんです。そういう意味では、終戦をしみじみ感じたようなことは、ないですね。戦争が終わったということを記憶として強く持ったことはないですね。それはやっぱり北海道へ行ったおかげでしょう。
──佐藤さんの中で8月15日に戦争が終わったという感覚はなかった?
北海道に行ったことが大きいんでしょうね。とにかく戦争から離れた。空襲の飛行機も来ないし、高射砲を打つ音も聞こえないので。親は大変だったかもしれないけど、のどかな2年半だったかもしれませんね。
──そうすると、家族や兄弟間で戦局について話したりすることはなかったんですかね。
どちらかというと、それは北海道へ行く前の方がありましたね。「ニミッツ、マッカーサー、地獄に突き落とす」とか、そういう歌があったんです。そんな歌を自然に覚えさせられた。だから日本は強いんだという感覚はありましたけど、まあ、6歳ですからね。戦争に染まって嫌だなとか、そういう感じではないです。子どもだから自然にそうした歌を覚えていたということです。B29はたくさん飛んで来てましたけど、横浜空襲(1945年5月29日)も体験してないので。
──自分が兵隊として戦場に行くとか、お国のためとか、そういう感覚も全然なかったのでしょうか。
ありましたよ。 やっぱり、それはありました。伯父が、軍で中将を務めていました。位の高い軍人です。父親からは「俺は甲種合格(徴兵検査で、第一級の合格資格)だ」という話も聞いていました。そのまま戦争が続いていれば、私も戦場へ行ったでしょうね。私の性格からいったら喜んで行くと思います。国のためとか家族のためだったら、死も恐れないタイプですから。そういう意味では、戦争が終わってよかった。
──佐藤さんは、戦中と戦後の両方の教育を経験されていますが、戦争体験者の方にいろいろとお話をうかがう中では、その教育が180度違うという話も聞きました。
そういう感じはしませんでしたけど、初めは戦前の教育を受けた。戦前の教科書で授業を受けて、それが戦後、ガリ版で刷られた教科書に変わりました。一部は黒く塗られていました。異様な感じはしました。ただ、記憶としては、古い教育から急に新しい教育になったという感じではなかったですね。
中国の自動車部隊に所属していた父
──お父様も濃密な戦争体験をされているはずだと思うんですが、お父様から当時もしくは戦後でもいいのですが、戦争について話を聞きましたか?
よく聞きましたよ。
──どんな話ですか。
やっぱり、日本は堂々と連合国相手で戦ったっていうね、誇りを持ってましたね。それからドイツを褒めてましたね。ドイツも大国を相手に戦って立派だと。
父親は、自動車部隊の隊長だったんです。ところが、自動車部隊なのに、重機関銃とかの武器をいろいろ持っていた。普通、(補給を主な任務とする)自動車部隊ではそんなことまずない。戦いが好きな強い自動車部隊だったらしいんですね。一方、戦って、戦利品を取ったというのと裏腹に、戦災孤児を保護していたらしいんです。それで、父親はよく新聞に載ったようです。
終戦後、家族全員で家業を再建
──終戦後は、すぐに神奈川に帰ったのでしょうか。
終戦した後、北海道には2年半いました。父親が北海道に駐屯したことがあるらしいんです。戦争が終わって帰ってきたら、父親はドッと疲れが出ている。それで、ゆったりできたようです。
でも、そんな父親を見て、母親は「お父さん、これだけ大勢の子どもがいて、田舎でのんびりしている場合じゃないでしょう」みたいなことを言ったと思うんですね。ところが、父親もやっとゆったりできて、毎日2合のお酒を飲んで、幸せだったと思うんです。なかなか埒が明かない。それで、家族会議が開催されました。
戦争でずっと父親はいなかったわけです。投票すれば、子どもたちは母親に入れますよ。それで、父親も「よし、わかった」と。それで、神奈川に戻ることになったんです。
北海道では、こんなこともありました。父親が家にいたときに、いきなりMP(アメリカの憲兵隊)が土足で家に上がってきて、父親に手錠をはめて連れて行っちゃったんです。このときのことは、私も覚えています。MPは体が大きくて、恐ろしかった。
その後、母親が手紙など燃やせるものは全部燃やし、燃やせないものは埋めてしまいました。証拠となるものをきれいに処分したんです。だから、両親の間で手紙のやり取りはいっぱいあったらしいんだけど、何も残っていない。結局、父親の連行は名前違いということで、帰ってきました。父親も喜んでいました。
──北海道から神奈川に帰ってきてからは、どのように生活していたのでしょうか。
神奈川に戻ってきてからが大変でした。戦前に家業として経営していた自動車教習所は、県の土地を借りたものだったから、もうないんです。学科ができる教室と住まいだけが残りました。そこで、しばらくは(実習は行わず)学科だけを教えていたんです。その後、商売が軌道に乗ってきたら、父親は自動車を動かしたいということで、東白楽(※現在の横浜市神奈川区)にある、元々は畑だった狭い土地を友達から借りました。教習所として使うために整地するといっても、機械なんてないですから、ドラム缶に水を入れ、押して、転がして、整地をする。そうやって教習所を造りました。
教習所ができても、その頃は、簡単にクルマを買うことはできません。まずは、フレームを買う。エンジンは横須賀から自分で担いでもってくる。そして、エンジンをオーバーホール。一晩中やってましたね。朝方になってエンジンのオーバーホールができて、クルマに乗せて、エンジンがかかって。そうやって、一号車を作ったんです。
本当に家業でした。姉たちは受付をしたり、ビラを作って駅でまいたり。小学生だった私の仕事は朝6時に起きて教室を掃除すること。母親は従業員の夕食まで作る。家族みんな、仕事がありました。
そして、学科と実習ができるようになり、生徒さんは免許を取得して、みなさん就職できるわけです。生徒さんは喜んでましたね。
麦飯から白米へ。復興の熱を感じて
──やっぱり8月15日ですべてが終わったわけじゃないですよね。家業のお話をされているとき、佐藤さんの目がキラキラと輝いていたのですが、やっぱり上へ、前へというエネルギーはあったのでしょうか。戦後、どの家も大変だったと思いますが、実際に、当時の日本、横浜の雰囲気、空気感、人の顔とか、全体としては「これから復興するぞ」という感じの明るい空気だったんですか。
まず神奈川に戻ってきたら、お米がありました。麦が多い麦飯です。だから友達の弁当を見ても、麦飯に梅干し、日の丸弁当ですよ。それにちょこっと佃煮があるくらい。みんなそうでした。それが小学校6年になると、全部白米になった。
世間一般が暗いとかそういう感じはなかったですね。復興しようっていう雰囲気は強かったと思います。早く復興しようっていうね。そういう熱は子ども心に感じていました。みんな一生懸命にやってましたね。
──少しずつ食も復興して。横浜でも、戦後数年は当然、アメリカ軍もいる。あと日本人も戦争から帰ってきて。何かそういう風景の記憶はありますか。
もう外人がね、外人様ですよね。子どもたちに優しいんですよ。僕らもねだるでしょう、チョコレートを。チョコレートやガムなんて、普通には手に入らないですから。まだ、子どもだから食べ物に弱い。それで喜んでね。
まあ、いろんな話、できない話もあります。女の子連れてね、僕ら「パン助(※占領期に駐留軍の兵士を相手にした街娼を指す差別的な呼称)」って言うんだけど、そういう女の子を連れて、人前で悪さをする。しかし、そういうのを見たとき、やっぱり日本は負けたんだなという感じがしましたよね。
家族を支えた気丈な母
──お母様がかなり頑張っていたようですが、何か印象的なエピソードや掛けられた言葉はありますか。
そうですね。昔の母親っていうのはすごいなと思いますね。電気製品などないんですから。朝食を用意するにも、朝4時ぐらいに起きて薪の準備からです。
そして、子どもたちに食事を与えた後は、すぐに布団を畳んで、さらに家中を掃除する。洗濯も手でやりますからね。続いてお昼の用意、近所への買い物と郊外への買い出し。買い物から帰ってきたら、今度は夕飯の準備。
買い出しは週に何回か行ってました。日曜日には、一番上の姉を連れて行きます。北海道での買い出しは物々交換でした。反物を持って行ったり。
夜中にトイレに起きると、その時間にも母親は何かをやっていました。本当に暇がない。子どもには食べさせても、自分は十分に食べてなかったと想像しています。そのためか栄養不足で、「脚気」になってしまったんです。
とにかく5人子どもがいて、気持ちが荒んだようにならなかったのは、母親の凄さだなと思います。もう本当に感謝ですよ。
こんなエピソードもありました。うちの父親は愉快で豪放磊落という感じだったんですよね。一方の母親はどちらかというと、父親を抑える役回りだった。戦争中は、父と母のそれぞれに収入が入るらしいんです。それで、父親が戦地から帰ってきたときに母親が聞いたらしいんです。「お父さん、少しは(お金を)残してきたの」。父親は「何にもねえよ」と。それで母親の言ったことは、「そうね。命を残してきたんだから。それだけ残してこりゃ立派だ」と言ったんです。いいでしょ。
似たエピソードに、こんなものもありました。北海道に戻ってきて、うちの父親も何か商売しなきゃいけないと思ったんでしょう。それで東京へ鍋をたくさん買いに行った。それで帰路、列車に乗って、お弁当を買いに行く間、隣の人に荷物を見ててもらうよう頼んだ。ところが戻って来たら鍋が盗まれてしまっていた。家に帰ってきて、父親が鍋を盗られてしまったことを母親に報告したんです。そのときの母親の返事が「いいのよ。私は鍋屋にだけはなりたくなかったから」というものだったんです。
今を生きる人に伝えたいこと
──佐藤さんは、会社の方や地域の方に戦争の話をしていると伺ったのですが、そもそもなぜ戦争の話を自主的にしようと思ったのでしょうか。
10年くらい前でしょうか。息子が「戦争体験の話をできる機会なんて、もう最後なんじゃないの」と言うんです。その頃、事業として学童保育を始めていたんです。それで、学童保育で戦争の話をしてもらいたいという依頼があって。そこからですね。
──それまでご家族に話したことはあったんですか。
家族には、あんまり話してませんね。少しは話しますが、戦後の話のほうが多いですよ。
──みなさんに戦争の話をされる際は、具体的にどのようなメッセージを伝えていらっしゃるのでしょうか。
一番言いたいのは、戦争はやっちゃいけませんということ。誰も喜ばない。やっぱり、小さい子どもでしたが、すごく嫌な思いをしました。寝てる時に起こされて、食べるものもなく。
本当に頭に浮かぶのは食べ物ばかり。だって北海道のときは雑草や木の葉っぱを食べてたんですよ。甘いものが欲しいから、木に傷をつけて、その蜜を食べたり、野いちごを食べたり。草を食べるのに、どういう草が食べられるか、全部聞いて。遊んでて喉が渇けば、川面に口をもっていって、川の水を飲む。あの頃は水も綺麗だったし、免疫力もあったんでしょうか。
そんな話をしますけれども、戦争中は非常に嫌な思いをしました。寂しいし、特に、食べられない。だから戦争はしないことですよ。私は、今は軍隊を持つべきだと思うけれども、戦争には絶対大反対しますよ。
──この「戦争の記憶」は、特定の思想を伝えようという企画ではないのですが、佐藤さん一個人として、今の世界や日本の情勢を見て、どういうお考えをお持ちでしょうか。
私の考えははっきりしています。まずは、憲法は改正すべきですね。本当に国を守るのは、話し合いじゃできません。一定の軍備を持って。自己防衛のための軍備です。攻められたら攻めるっていう形で。積極的に他の国を攻めるわけではありません。
そして、私が一番言いたいことは、日本の歴史をみんなにもっと勉強してもらいたいということです。日本というのはどんな国なのか。世界中どこを探しても、二千年以上続いた国なんてないんですよ。どういう理由で続いているのかっていうことも、みんなわかってないと思うし。やっぱりこれは皇統ですよね。天皇がいて、それを大事にしてやってきた。民主主義なんて聖徳太子の時からもうできてるんです。
源氏物語も11世紀初頭にできた。あの頃、世界にそんな文学がありますか。しかも女性です。男女平等なんてものではないです。そういうふうに考えると、日本はやっぱり立派な国で、国際連盟ができた時に、人種は平等だって言ったのは日本じゃないですか(※1919年のパリ講和会議で、日本は「人種平等」を主張した)。
日本という国を、みんなもうちょっと理解して、誇りを持ってもらいたいということを一番に言いたいですね。何も好戦的(になれと言っているわけ)じゃないですよ。
日本は、好戦的に見られてるけれども、そうじゃないでしょうね。やっぱり、ロシアが南下政策で下りてきて。日露戦争をやらなかったら、やられてますよ。日露戦争のおかげで白人には絶対敵わないと思っていたアジアの人たちが、「あ、できるんだ」と日本を尊敬したわけです。
それで、アメリカが日本を増長させるとダメだということで、イギリスと手を組んでやっつけに入ったわけでしょ。だけど、石油が止められてしまいましたから。石油を探し求めてアジアを回るしかないじゃないですか。
そのアジアを回ったって、ちゃんと国として自立できるようなことを話し、その後、全部独立したじゃないですか。心ある人、アジアの人はみんな日本を尊敬していたんですよ。
──平和は大事だし、戦争はもちろん反対だけど、でも強さは必要ということでしょうか。
日本人は決して好戦的な国民じゃありません。農耕民族ですから。狩猟民族じゃないんです。その辺をみんな忘れてるんですよね。それはなぜか? アメリカですよ。アメリカがこんな国にまた立ち上がられたら困るというので、徹底的にやった。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(※戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)の下にすごいことをやったわけです。
あれからだらしなくなっちゃったんです。マスコミもだんだん左掛かってしまっているし、本来の日本じゃないですよね。私は右翼じゃないですよ。世界をリードする本当の日本人になってもらいたいと思っているんです。
──最後に、今度また子どもたちの前でお話しされるということですけど、その中で子どもたちへはどのようなメッセージを送るのですか。
まず、こうやって食事できて、毎日を送れるってことについて、家族や周りの人に感謝しましょうっていうことを言います。
自分のことは自分でやりましょう、それから、礼儀のことも言いますね。あと親に感謝するということも強く言いますね。家族仲良くしましょう。人と争わないで話し合って愛してみましょう。人のことを考えましょうということを強く言いますね。日本人というのは、本当に人のことをよく考えている民族だと私は思います。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/山田 隆)
2025年7月10日取材