記憶9 菅田 芳樹さん

死の覚悟と葛藤、海軍兵学校の教え

Yoshiki Sugata 菅田 芳樹さん

すがた・よしき/1926年東京都世田谷区生まれ
広島県呉市在住

幼い頃から海軍にあこがれ、難関を突破し江田島海軍兵学校で過ごした1年9カ月が、その後68年の人生を「余生」に変えた菅田さん。「志願=死」が常に横にある環境の中で得た、かけがえのない経験とは。

難関の海軍への道

——1945年はどこで何をされていらっしゃいましたか。

当時19歳で、海軍兵学校に入っていました(海軍兵学校とは海軍機関学校、海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれ、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの合衆国海軍兵学校とともに世界で最大の兵学校の一つ)。入った時の校長が有名な井上成美〈第二次世界大戦中、英語教育が廃止縮小される中、強い信念で従前通り英語教育を継続し、徹底した教養教育を行った校長。このことが礎になり、坂元正一東京大学名誉教授(皇族の産婦人科担当医を長年務める)や、建築家池田武邦(日本の高層建築のパイオニア)など、戦後に卒業生は各界のリーダーとして活躍している人も多い)で「自分の国の言葉しかわからん海軍将校はいらん」ということで最後まで英語を教わり、終戦と同時に卒業しました。

——海軍兵学校の試験はどのような内容ですか。

普通の試験です。1次は英語、2次が数学。その前に身体検査を受けて、通った者が学科試験を受けるのです。身体検査はハードで、視力は1.0以上でないといけない。眼鏡をかけている者はダメでした。受験写真はパンツ一丁で撮りました。入れ墨や何か大きな障害があると、将来、将校になった時に部下から後ろ指を指されるので、そういう人を採らなかったようです。

——具体的にどのようなことを学ばれたのでしょうか。

詳細は忘れてしまいましたが、航海のごく基礎でしたね。その勉強だけで船に乗っても何もできない、実際に船に乗って修行しないとまだ一人前になれないような授業しか受けていなかった。むしろ科学や物理という一般の勉強が最後までありました。

 

軍医の父

——お父様が軍医でいらっしゃったそうですが、医者になることを以前から決めていたのでしょうか。

私は兵学校を卒業して軍人になると思っていましたし、時代が許さなかったのもあり、医者になるという選択肢はありませんでした。
ですが終戦後、兵学校を卒業した者に大学受験資格がもらえたので、私は文学部に行きたかったのですが、親父に相談すると「医学部へ行け、医学部じゃないと学費は出さん!」と言われ、医学部を受けたのです。

——何が何でも医者になりたいと思っていた訳ではないのですか。

それはないです。軍人一本でした。

——ご兄弟はどんな進路を選ばれたのですか。

6人兄弟で私は2番目ですが、兄は中学から医学部へ行き、医者になりました。弟たちは、一人は大学が嫌いで行かなかったのと、もう一人は東大を出て大企業に進みました。妹二人は広島で結婚しました。

 

あこがれの海軍兵学校へ

——海軍兵学校に入るということは、当時の若い人たちのあこがれだったのでしょうか。

そうですね、特に軍人を希望する人はそうだったと思います。高等学校や大学を出て役人になりたいという人もいましたけれど、まぁ、普通に皆、軍人を希望していましたね。
私は小学校2〜3年にかけて海軍兵学校の中の小学校に通っていたので、生徒のキビキビした姿を見ている間にあこがれていました。それで、陸軍の試験は受けずに海軍一本でした。
当時兵学校といえば何十倍の倍率で難しいのですよ。実は、中学4年の時に受けまして(一度)落ちたのです。落ちると、次の日から学校に行かなくてよいのだけれど、受験写真と内申書が放り投げてあるので拾ってコソっと持って帰る、恥ずかしい思いをしました。

兵学校入学前夜は、江田島の倶楽部(という宿泊場)の風呂場に連れて行かれます。
風呂を沸かし、今まで着ていた服を全部脱いで湯船につかり、風呂から上がるとふんどし、シャツ、軍服を着て「これで貴様らはシャバと縁が切れるぞ」という思い入れ(のある儀式)があり、その翌日、入学式に向かうのです。

 

志願と背中合わせ、死の恐怖

——今の時代に生きる僕は、戦争が恐いので兵学校へ行きたくないと思うのですが、当時、大多数の方は「お国のために」という気持ちで兵学校へ進学されたのでしょうか。

お国のためにということではなく「あこがれの兵学校へ行く」という気持ちですね。
生命を失う機会が多いのはわかっていましたし、死ぬのはやっぱり恐いのですが、軍人へのあこがです。痩せ我慢というか、特攻を血書で(自らの指を切り血で書く嘆願書)志願して「入って死んでったろう」と思うのです。あと一年戦争が続いていたら、私は完全に戦死していたと思います。あこがれで入った学校ですけれど「死」は常に意識していました。

——どのくらい「死」を身近に感じていたのでしょうか。

兵学校では「生徒の自治」が認められていて、先輩が後輩を指導するということがあり、その時に鉄拳制裁を受けまして1年間足らずで二千発以上、殴られました(笑)それでも、その先輩たちが卒業するときは、皆、おいおいと泣きました。殴り、殴られたのも一つの指導で、我々のためにやってくれたんだと、思っていました。
寝る前に15分くらい、恐かった上級生がベットの前に集まって「おい、今頃シャバでどんな歌が流行っているのか教えてくれ」などという団らんがありましたから、そういう想い出が積もり積もって、(先輩たちの卒業は)涙になりました。

——1945年は日本の敗戦は確実になっていたたと思いますが、その情報は入ってこなかったでしょうか。

入った時は負けると思いませんでした。ですが途中から、ちょっとおかしいな、負けるなと思いました。国の軍港や(通っていた)兵学校が空襲を受けたりしたものですから。機銃掃射(のミサイル)で土煙が上がって迫ってくるのは恐かったですが、痩せ我慢ですよ。
特攻隊を募集すると血書してやろうと思いますし、一般の人は「兵学校で一年教育を受けたら死ぬのが恐くなくなる」と言いましたが、やっぱり最後まで死ぬのは恐かったです。

 

志を失った敗戦

——8月15日の終戦の時はどのような感じでしたか。

(玉音放送を聴くために)皆集まりましたが、放送障害があって聞こえませんでした。
(天皇の肉声の放送を)聞こえたところもあるのですが「ガーっ」と(妨害音)妨害を受けて全然聞こえませんでした。

——兵学校以外でも玉音放送の妨害はあったのでしょうか。

あったのではないでしょうか。東京の方でも放送が聞こえなかったという人もいました。

——どういう人が放送を妨害したのでしょうか。

戦争を続けたいという人でしょうね。

——戦った国に対して「憎い」という気持ちはありましたか。

ケンカをする相手ですからね。「徹底的にやっつけてやろう」という気持ちはありましたから。

——終戦を聞いた瞬間の気持ちを教えてください。

目先の目標を失われた訳です。兵学校の海岸の方に特殊潜航艇(敵海軍の泊地襲撃や、工作員潜入などに使われる軍用潜水艇・小型潜水艦)が軍艦旗をなびかせながら入って来て「これから出撃する」というわけです。私たちも一生懸命手を振っていました。もう戦争は終わっているのに。(終戦で直ちに命を失うということはなくなったけれど、敗戦は)悔しいという気持ちでした。死ぬのを免れてよかった、という気持ちはありませんでした。
(終戦で戦争以外に進学などの選択肢ができることで)目の前がパーッと明るくなるということもありませんでした。

——気持ちを切り替えられたキッカケは何ですか。

やはり時間でしょうね。終戦直後と数ヶ月過ぎたときでは、だいぶ気持ちが違いました。大学を受けていいということになり、講習を受けているうちに「医者になろう」という気持ちになっていました。

——兵学校の寮生活を振り返って、想い出深い出来ごとは何ですか。

私は1年9ヶ月しか兵学校に通っていませんでしたけど、とてもいい経験をさせてもらったと思っています。同じ目的を持った一つの団体だという意識があるものですから。
面白いことがありましてね、女学生が兵学校の起床動作を見に来たのです。
起きてから服を来て布団をたたむまで、2分半で行う訓練を何度もした厳しい規則でしたので、それを見学に来た訳ですが、寝ている間にベットとベットの間がザワザワして、何だ?と思ったら、女学生がずーっと入って来ていましてね。慌ててふんどしを締め直したり、驚きました(笑)

——それは、誰かに許可を得ているのですか。

それは、もちろんですよ。
起床ラッパが鳴って「起きろ!起きろ!」という声と共に起きて2分半で身支度を整えなくてはいけないので、途中から女学生のことは頭から消えましたが、起きて目の前に女学生がズラーっと列んでいたのは、驚きました。

 

戦後は余生。貴重な学び舎、江田島兵学校

——戦争時代を生きて「これが辛かった」ということは、何でしょうか。

私は特別ですかね。1年9ヶ月の海軍兵学校での生活以後は、余生だと思っています。
自分の思いは終戦と共になくなったという気がします。私はいま87歳ですが、19歳で終戦となり、19歳までの1年9ヶ月の短い時間の影響がいまだに残っているのです。
同期生が集まって酒を飲んで昔話をする仲間が、20人いたのが今では4人になりましたが、これも一年のうちの一番の楽しみです。

——終戦後の今の話よりも、昔の話で盛り上がるのですね。

そうですね、いいこともあり、悪いこともある中で鍛えられた仲間ですから。
いつも言われるのですが「兵学校の生徒は、余生を送っているんだ」と。その余生が60年以上続いている。その気持ちは変わりません。

——今の日本、この時代をどのように観ていますか。

戦争はやっぱりしてはいけないです、特に負ける戦争は絶対するな、と。
米内光政、山本五十六、我々の校長の井上成美。この3名が日独伊の三国同盟に反対し、アメリカとの戦争にも反対し最後はハワイに突っ込んだ訳ですが、あの方々の気持ちが私は素晴らしいと思っています。まぁ、田舎でくだらん医者をしていたずらに時を過ごしたな、とは思いますが、あの海軍時代が一番懐かしい。岡山の医科大学時代のことなど、夢にも出て来ないです。何かあると「江田島(兵学校)」と思います。
あの時代に、英語を(教えることを辞めろという時代に)辞めなかったことはすごいし、食卓礼法(テーブルマナー講義)を教わり「こんなの教えてくれるところは、(他に)ないだろうな」と思っていました。(了)

(インタビュー/早川洋平 文/遠藤恵美)

※このインタビュー音声は、かねてからキクタスの音声制作・編集パートナーである中川一さんの編集により配信させていただいております。また、ダイジェスト文章は、コピーライターの遠藤恵美さんがまとめてくださっています。多大なるサポートにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。