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記憶10 福田 秀郎さん

軍艦の日常、壮絶な海戦体験

Hidero Fukuda 福田 秀郎さん

ふくだ・ひでろう/1921年生まれ
埼玉県狭山市在住

軍艦「摩耶」「武蔵」で壮絶な「レイテ沖海戦」を経験。船から投げ出され大海原を漂った長時間を「気楽だった」と語る福田さん。戦争にも劣らない「恐怖の慣習」があった軍艦の日常とは。

軍艦「摩耶」で始まる海戦経験

——第二次世界大戦が始まった時、どこにいらっしゃいましたか。

1941年(昭和16年)12月8日の日曜日朝6時半ごろ、ラジオ放送が始まり、当時まだ学生だった私と家内(後に結婚する奥様)を、父親が「戦争が始まったぞ、起きなさい」と起こしに来たところから始まりました。
翌年1月10日横須賀の海兵団(軍港の警備防衛、下士官、新兵の補欠員の艦船部隊への補充や、海兵団訓練の練習部があり、新兵、海軍特修兵、下士官などの教育、鎮守府に設置されていた海軍の陸上部隊)に入団し、約3カ月間水兵の教育を受けて「軍艦摩耶」(日本海軍の重巡洋艦。高雄型重巡洋艦の3番艦)へ4月10日に入船したのが、軍隊生活の始まりです。学生は2〜3年間入隊延期できたのですが、戦争が始まったので自ら延期を断り、一般兵として海軍へ入隊しました。
それから1週間後の4月18日、東京で空襲(アメリカ軍が、航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機により日本本土に対して行った初の空襲「ドーリットル空襲」)があり(アメリカ軍の)航空母艦を追いかけるために、三河湾から出航して1週間ほど太平洋をグルグル探しましたが捕まらず、横須賀へ帰港したのが、私が戦争に参加した最初です。

——海軍の水兵は、戦闘艦に乗るのでしょうか。

戦艦、航空母艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦、その下に小さな船があります。私が乗っていたのは重巡洋艦で、排水量が1万トン。巡洋艦でも大きい方でした。軍艦にはそれぞれ名称があり、航空母艦や戦艦は大和時代から伝わる昔の日本の“国の名前”が付いていました。
例えば「大和」とか「武蔵」とか。巡洋艦は“山の名前”でした。「愛宕」「高尾」「鳥海」と私が乗った「摩耶」を4戦隊といい、5戦隊が「那智」「妙高」「足柄」と、7戦隊ぐらいまでありました。駆逐艦は“波”や“風”の名前が付いていました。
だいたい1戦隊が4隻ぐらい、航空母艦は戦隊には入っていませんでした。

昭和17年(1942年)4月18日東京空襲のあと、5月27日カムチャッカのアリューシャン列島へ行き、アメリカ軍と交戦が始まったのです。私の覚えている範囲でいうと、コロンバルスキーという島の近くでした。
こちらは私の乗っていた巡洋艦の「摩耶」と「足柄」駆逐艦が6〜7隻の合計8隻ぐらいで、アメリカ軍は4隻ぐらいしかいなかったのです。朝の6時からお昼くらいまで大砲を打ち合いまして、波は穏やかだったのですが、両方とも当たりませんでした。

感心したのは、向こうの大砲に着色弾があったこと。自分が打った大砲がどこかの船に当たれば、それにあわせて集中攻撃できる。でも日本は着色弾を使っていなかったのですね。
もう一つ感心したのは、こちらから敵を発見して打ち始めたのではなく、向こうから打ち始めたということ。日本にはまだ電探(電気探知機)が無かったのですが、アメリカは電探を使っていて、日本軍が8隻もいたのですから、小船団だと思って安心して出て来たら艦隊だったので、逃げて行ったのですよ。まぁ、逃げ足が早いもので無事に終わった状態でした。それが初の「海戦」体験でした。

 

同僚の死、第三次ソロモン海戦

その後内地へ戻り、その足で太平洋の南方、ショートランドのラゴールという夜戦があった島へ向かいました。「摩耶」はラゴール近辺で待機して夜戦には加わらなかったのですが、船は何隻が集まると1隻が“旗艦”(複数の海軍艦艇からなる部隊(艦隊もしくは戦隊)の指揮官が乗る艦に指揮官旗が掲げられることから、旗艦と呼ぶ)になるのですが、その時「鳥海」が旗艦になり、向こうの船を2〜3隻やっつけてしまったのです。それはさすがに有名になりまして「鳥海の野郎、上手いことやったな」と、みんなが言っていましたね。

その翌日か翌々日に「摩耶」も出て行ったのですが、敵の大空襲にあいました。「摩耶」も大砲や機銃を持っていたので、敵機を結構落としたとは思うのですが1機だけ、自爆か落とされてきたのかわかりませんが、ちょうど船の真ん中に落ち、船を動かすための重油を焚く釜「汽罐」がやられてしまい、悲惨なものでした。
巡洋艦には推進軸のプロペラが4つ付いているのですが、1つしか動かなくなって、動きが取れなくなり、ヨタヨタしながらラゴールの港までたどり着いた記憶があります。その時に戦友が一人腹部に傷を負いまして、船の上では十分な治療はできませんから、腹膜炎で3日後に亡くなりました。これには相当こたえました。。
その後ラゴールから横須賀へ戻り、半年くらいかけて船を治しました。その時、アメリカ軍はまだ沖縄まで来ていないのですが、ラゴールや太平洋南方の方には相当来ていましたし、ミッドウエイ海戦の時には、我々はアリューシャンへ行っていたので助かりました。

 

軍艦が沈没、壮絶なレイテ沖海戦

昭和19年(1944年)10月23日、アメリカがフィリピン上陸のためのレイテ沖海戦(第二次世界大戦中の1944年10月23〜25日フィリピン及びフィリピン周辺海域で、日本海軍とアメリカ・オーストラリア海軍からなる連合国軍との海戦。規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことから史上最大の海戦といわれる)があり、大和・武蔵・愛宕・高尾・摩耶、鳥海はいなかったと思いますが、レイテ島へ攻め込むために相当大きな艦隊で行ったわけです。

我々の起床は朝6時なのですが、敵のそばに行くと2直交代で半数は寝て半数は起きて、戦闘配置につき訓練を行うわけです。レイテ島はその時まだ暑かったので、半袖・半ズボンでした。戦闘訓練を始めたのは朝6時半ごろですが、その時から敵の潜水艦の猛攻撃がありましてね。その時の旗艦が巡洋艦の「愛宕」だったのですが、敵の潜水艦の魚雷(魚形水雷の略称、弾頭にエンジンとスクリューが装備され、水中を航行し、艦船などを爆発によって破壊する兵器)が当たり、私たちの目の前で、あれよあれよと5分ぐらいで沈没しました。
そういう時、船は大きくジグザグに進む “之(く)の字運動”という型で移動するので見ていたのですが、2番目に走っていた「高尾」も、敵の潜水艦にやられたのです。
周りにいる駆逐艦や巡洋艦は、爆雷(水中で爆発する水雷兵器の一種。水上艦艇や航空機から海中に投下し潜航中の潜水艦を攻撃する)を持っているのですが、沈んだ船の兵隊が海に浮いているので、爆雷を撃つと爆発した波の振動で彼らのお腹がやられてしまうため撃てないのです。

「戦闘服に着替えろ」と号令があり、私の戦闘配置は艦橋(軍艦の上、甲板上の檣楼内など高所に設けられた指揮所)でしたが、部屋は船の一番後ろの方でしたので着替えて右舷(船首に向かって右側)を通り戦闘配置に戻る途中、敵の魚雷が4本、船の左側に当たりはね飛ばされそうな轟音で「えらいことになったな」と思いました。号令から10分くらいの出来事です。
船はまだ動いていて、20度ぐらい傾いていましたけれども、しばらく経つと艦長から「総員退去」と号令が出て、万歳三唱と君が代を唱いました。

船は、惰性で動いていますがどんどん傾き、逃げるために船の横っ腹に出て寝そべっていると、足の方からスーッと海に入っていきました。
船から早く離れないと一緒に巻き込まれてしまうので、立ち泳ぎで去って船から離れ最後を見ていましたら、船は後ろの方を直立させながら沈んで行きました。
泳げない連中もいますから船にすがっている姿も見えました。
それが朝の6時半ちょっと過ぎで、レイテ沖は暖かいですから水温も高いので助かったのですが、アリューシャンの方だったら寒くて2分でやられてしまいます。
駆逐艦は(被害なく)グルグル回っているのですが爆雷を落とすわけにもいかず、そのうちボートを降ろして拾い上げていきましたが、3時間ぐらい立ち泳ぎをしていました。“溺れる者は藁をも掴む”というように、こたつの矢倉のような四角いものが流れて来たので片手つかむと、よく見るとそれに3人ぶら下がっているのですよ。4人もつかんだら沈んでしまう。でも4人でそれを持ち上げながら泳いでいましたね。人間なんておかしなもので、沈むのがわかっていても、それにすがる。それを30〜40分つかんでいました。
それから、サメは長いものには食いつかないというので、着ているものを全部脱いで、泳ぎながら足首にフンドシを縛り付けました。気持ちの問題ですね。
それと、船が沈んだあとですから体中が重油まみれで、船へ上がる時は大変でした。ボートは人を救い上げてはくれないのです。船から垂れ下がる綱にすがって上がっていくのですが、自分の体の油と、前に上がった人の油で何度も滑り落ち、やっと上へ上がった時はホッとしただけで、生きていて良かったという気持ちではなく「早く水が飲みたい」という感じでした。

 

戦争より怖い海軍の慣習「甲板整列」

——3時間ぐらい海にいた。ということですが、何を考えていましたか。

ただ浮いているだけです。生きようとか、死ぬとかは考えていない。ただ、波にゆられて、ぼっくりぼっくり。

——恐怖という感じでもないのですか。

恐怖なんていうものは、飛んでしまっています。恐怖は最初から無くて。軍隊には甲板整列というのがあるのですが、食事が終わったあとの小一時間、一部屋の兵隊が集められまして、一番古い兵隊が気合いを入れるわけです。
その理由は取って付けたようなことで、ひっぱたいたり、精神棒という1メートル半くらいの棒で尻をひっぱたかれるのです。

——棒は金属ですか? 木ですか。

木です。金属は消火栓です。木でひっぱたかれると折れないのですが、消火栓はへこんでしまいます。いわゆる「気合いを入れる」というやつでね。
これは、兵隊だけではなく、私の知っている範囲では士官連中もやっていたようですな。兵隊学校を卒業したばかりの将校の卵へ、中間職ぐらいの人が気合いを入れる。戦争より怖いのが、その“気合い”当時は、戦争の方が楽なのです。

——想像を絶します。気合いや体罰というものに、刃向かうということは無いのですか。

ないです。戦争が始まると、仕事は同じところに座り、機械を見て針を合わせたりする、そうしていると食事を持って来てくれる。気合いを入れられるより、そちらの方が気楽な訳ですから。だから、海の上でぽっくりぽっくり浮いている方が気合いを入れられるよりまだ気が楽なのです。

助けてもらったのは駆逐艦ですが、200人規模の船なので食事や寝る場所が無いものですから、その後、我々を乗せてくれたのが「武蔵」。それが、10月23日夕方までの光景です。

 

二度目の沈没、死体が重なる軍艦「武蔵」の最期

それから10月24日、レイテ沖へ残った船が進んだのです。それで大空襲があり「武蔵」が狙われました。
我々は助けられたので、戦闘配置が無く船の中に閉じ込められていましたが、爆弾や魚雷が当たり兵隊がいなくなった戦闘配置には、助かったものが配置され、空襲は夕方4時ごろまで何回も続きました。私は補充に付かなかったので、空襲が終わってから外へ出て行った時には、船は見るも無惨な姿でした。船の左に大きな穴が空いていて、同じところに魚雷が当たっているのですが、それでも「武蔵」は沈まない。船の上に爆弾や機銃の跡があるのですが、亀裂も何も入ってないのです。それを見ると相当頑丈な船だというのがわかります。ですが、その左の穴を見ると舵がやられているのです。なので、同じところをグルグル回るだけで真っすぐ進めない。
我々助けられた便乗員は「島風」という駆逐艦に移り、残った船でさらにレイテ島に進み「武蔵」はどこかの島へ乗り上げて砲台にするはずだったのですが、前へ進めないので、グルグル回っている間に浸水して沈んでしまいました。
私が「武蔵」を出る時はまだ型が残っていましたが、酷かったです。
船の上の方は、昔の海賊船でよく見る、戸柱の上に死骸が下がっているような、たくさんの死体が重なり合い、ぶら下がっていました。

——亡くなっているのですか。

はい。(船の上で死体がぶら下がっている様子は)まぁ、凄かったですね。
その時「島風」に移ったのは400人くらいです。もとは1000人ぐらいいましたから「摩耶」が沈没した時と「武蔵」の戦闘で600人くらい亡くなっています。神奈川県の辻井戸に隔離兵舎がありまして、沈没船の連中が集められるのですが、その時には400人ぐらいしかいなかった。「武蔵」の連中も後から助けられて来ました。武蔵の戦闘員は三千数百人いましたが、300人ぐらいしかいませんでした。
24日に残った船でレイテ島に進み大きな戦いでもあるのかと思ったら、やらないで引き返しです。

——それはどうしてですか。

わかりません。その時は日本の飛行機は一機も来なかったですからね。二の舞になったら困ると思ったのでしょうかね。もう、負け戦になるとそういうものです。

——当時、戦争に行かなかった方もいらっしゃるし、ニュースでは「勝っている」と報道していたとのことですが、海軍の中にいて「これ、負け戦だな」と思われたことはありましたか。

それはないです。ニュースは入って来ないですから。電信など受ける立場にいるとニュースでわかるのですが、一切情報は出ません。新聞もないですし。「あの船がやられた」とか情報は噂や口伝えしかないですから。ただ、これは酷いものだな、ということだけはわかりました。自分の船がやられるだけでなく、他の船もやられていますから。

海軍では履歴書があり、1つの戦闘がある度に履歴が書かれ、それによって勲章に差が出ます。例えば、兵隊と士官では階級が違いますし、士官の中でもトップと一番下では差があります。ところが、船が沈んだ場合はその成績は全てボツになるのです。レイテ島から帰ってきて私が乗る船はなく、行く場所がないわけです。

 

「touch and me Sir!」米軍のひとことで終戦を知った

結局私が配属されたのは、千葉県の香取航空隊という航空兵がいる場所ではなく、教育機関で整備士などがいる場所でした。昭和20年(1945年)1月転勤して、8月に千葉県に米軍が上陸してくるだろうというので、名古屋の航空隊挙母基地、今でいう豊田に転勤になり、それで8月15日終戦です。

名古屋航空隊は山を崩して作られ山の中にあるのですが、米軍の接収(無条件に土地や建物を占領軍が差し押さえること)の要員として残されました。本当は9月で帰る予定が、米軍の接収が台風で延期になったので、11月頃までいました。その間、内地のことはほとんどわからないのです。

——戦争が終わっているのに?

戦争は8月15日終わっているのですが、11月にアメリカ軍の戦闘機が飛行場に降りたのですよ。「大変だ!敵だ!敵が来たぞ!」といって出て行くと、戦闘機が停まり降りて来た野郎が、何をするかと思ったらいきなり「touch and me Sir!」と。その時はじめて「あぁ、戦争が終わったのだ」と実感しました。

敵を見たのはこの時とショートランドで船の真ん中にアメリカ軍の飛行機が落ちたとき。墜落した戦闘員の顔は見なかったのですが、色んな物を持っていました。ケーキ、チョコレートだとか、身の回りのものも。あと、コンドームまで持ってていたのですよ。

——使う機会はあったのですかね……。

あるのでしょうねぇ、あの連中はね。

 

軍艦の日常、水葬と食事、酒盛りのあと

——戦闘員はなくなっていたのですか?

はい、死んでいます。姿は見えるのです。

日本軍の戦死者の追悼は船で行いますから“水葬”です。
木箱を作りまして毛布に包み、後甲板で当直以外の人が集まります。ラッパを鳴らしながら弔銃を3発撃ち、道板(港から船へ乗る際に渡るために敷く板)に乗せて両方から3〜4人が持ち、船は停らず動いていますから、それに合わせて海に葬って3回ばかり同じところを船がまわるのです。それでおしまい。
墜落してきた飛行機の死体をどうしたかは、知りません。
だから、戦争の悲惨だなと思うのは、自分の戦友が腹を撃たれて腹膜炎で3日後に死んでしまい水葬にしたことと、ラゴールでも戦友がやられたのですが、それはなぜかあまり記憶にないのです。ラゴールの連中の遺体はどうしたかのというと、水葬して、指先だけを陸上へ持ち帰り、焼いてお骨にしたのですが、大抵の戦死者は(死を知らせるものは)紙に書いたものしかなかったようです。
戦争が悲惨だなと思うことは、そのようなことですが、自分の身のことを考えると、悲惨だとか、怖いだとか、考えたことはなかったですよ。

——海軍として船にのっていたのは、3年くらいですか。

そうですね。船上で一番困るのは水ですよ。毎朝、顔を洗って歯を磨いたりする時にもらえる水は1リットルです。まぁ、極端なことをいうと、帽子と、靴下かフンドシぐらいは洗ってしまいます。お風呂といっても、水を3杯、1リットルを3つもらうだけです。

——水ですか、お湯じゃなくて

水です。よく間違えなく3リットルもらえるな、と思うのは、水をもらう場所へ入るときに、小さな将棋の駒のようなものを3つもらうのです。それを1杯もらう度に渡すのです。渡すものがないともらえないのですよ。
それで体洗って、洗濯して。海軍の服は白い物が多いのですが、すすぎの水が足りず洗剤が残っていても“乾けば白くなる”とよくいったものです。

——船に乗っているときは、どんな食事だったのですか。

食事は麦飯です。お汁は、菜っ葉にイワシを潰したようなやつかな。後は、たくあんを2〜3切れ、時には梅干し。これが3食、朝昼晩同じ。ただ船が港に着く、入港とか出港の晩は、一杯飲ませてくれる。これだけは間違えないのです。
ただし、飲んだ後の食器を翌朝のご飯に使うのですから、それを洗う一番下の兵隊は、大変なのです。茶碗だと割れてしまいますので、ホーローの器なので酒やビールを注ぐとニオイが付くのです。飲むのは夜ですから、翌朝ニオイが付いた食器をそのまま使ったら、これは甲板整列で大事になりますわ。なので、飲んだあと酔っぱらいながら、磨き上げなければならないのです。それがキツイものですから、それは酒も強くなりますよ。

——毎日寝る時に「明日生きているのだろうか」とか、恐くて眠れなくとかなかったのでしょうか?

麻痺していますね。考えも及ばない。要するに、死ぬのは当たり前だと最初から承知の上のことですから。

——入隊したときからですか。

入ったときからです。周りの環境がそうでしたからね。「軍隊というのは行ったら死んじゃうものだ」と。

 

戦争は負けて良かったのかもしれない

——もう逃げたい、とか、将来生き延びてどうしたい、とかそういう気持ちはなかったのですか。

好きな人がいたとか、そういうのもなかったですからね。
親父とお袋は新潟・長岡在住で距離も離れていたので、割合、気が楽だったのです。
あの辺りだいたい仙台の陸軍第二師団に入隊するのですが、私は本籍が東京の浅草だったので、本籍のあるところで徴兵検査を受けて、その時に水兵といわれたものですから「特別かな」と思いました。
もし私が陸軍で仙台に行っていとしたら、仙台の連中はガダルカナルでみんな死んでしまっているので、酷いものです。新潟県の長岡市は8月1日に空襲でやられています。なぜ空襲があったかというと、山本五十六が長岡出身だったから。アメリカ軍の仕返しだったのですよ。私のすぐ下の妹は長岡の空襲で亡くなりました。兄は陸軍で中国へ行き、終戦で帰ってきましたけど、お袋側の叔父さんはずっと浅草にいて3月10日の東京大空襲で亡くなっています。
だから私も戦争の被害者なのですが、自分自身は何ともなく残ってしまっています。戦争が良かったか悪かったかなんて、考えたこともなかったです。
今になって、あの時日本が勝っていたらどうなったのかなと考えると、勝っていたらもっと酷くなっていたのかな、それとも、朝鮮みたいに半分になっているのかな、と色々思いますが、まぁ、負けて良かったのかもしれないな、という気はありますね。

——なぜそう思いますか。

自分が納得するからでしょうね。私は人を直接殺したりしたことがなかった。そこまで自分を自制したわけじゃないのだけれど、そういう巡り合わせや環境の中を動かされていたという気持ちはありますね。
学生時代も毎日遅くまで戦闘訓練ばかりでしょう。習志野や代々木の練兵所では、戦争ごっこをさせられたり、そういうのが普通だと思っていました。

——普通だと思っていたといいますが、楽しくはないですよね。

楽しくはないです。あきらめでもないのですね、みんなそうやっているのだという思いのが、身に付いてしまっていたのです。

——船で過ごした3年も、普通の日常ということですよね。何か支えになっていたことというのも、特にない感じですか。

ないですね。ただ、やっぱり慰問袋(出征兵士などを慰め、その不便をなくし、士気をあげるために日用品などを入れて送った袋)だとか、手紙をもらうのはうれしかったですよ。家内からの手紙(戦時中は結婚前)が来たこともありますよ。「お人形を贈りました」と書いてあったのですが、残念まがら人形は来なかったです。多分、途中で捨てられたのでしょう。

——手紙の返事を送ることはできるのですか。

書けましたが、着くかどうかはわかりませんでした。
当時、そんなことまで考えたことがなかったですね。家内から手紙をもらったのはうれしかったですよ。何もないですからね。食べ物も水も満足にもらえない毎日でしょう。水だけは、大変なありがたみがありました。船がやられて帰って来て、辻堂あたりから鎌倉まで行軍したことがあったのですが、坂道を通る時に谷川の水がチョロチョロ流れているのを見て、うらやましく思いましたね。
今では、水をナンボ使っても何も思いませんが、当時24歳で戻って来て、5〜6年は水のありがたみを切に感じていました。
船上生活については、陸軍さんと違って「歩かないですむ」というのがありましたから、陸軍さんに比べると、軍隊に対する郷愁はありますね。

——海軍の生活で同僚との会話はどのようなものですか。

話したという記憶はないですね。
船には年数によって段階がありますが、昭和19年には私は兵隊の中ではトップだったのです。階級ではなく勲差で、わずか2年半の間に。第一軍隊が大砲、第二軍隊は高射砲、第三軍隊が船の測的と同じような関係、私がいたのは第四軍隊で兵隊の中ではトップになり役職が色々ありました。
役割というのは上の方から何人かの兵隊にさせる仕事を誰にさせるのかを決めるのです。あとは、甲板整列の役割です。私は当時、50キロがやっというほど体が小さかったので、殴る私が痛くてかなわなかったのですよ。なので、非常にずるい考えだったのですが、私のすぐ下には2〜3人、私より序列の低い者がいたので、彼らを呼びつけて「今日の小言はこういうことでやれ! おまえらがたるんでいるから、こういうことになるのだ!」と、3人ばかりひっぱたくのです。3人ぐらいだとそれほど痛くないので。
後は、夜の甲板整列で20〜30人を並ばせ、その3人が個別に「精神がたるんでいる!」と小言をいい、交代で精神棒を使って兵隊を殴りつけるのです。気合いを入れるということですね。まぁ、トップになるまで、私も何本精神棒で殴り付けられたかわからないですし、何回ひっぱたかれたかもわからない。でも、叩く側もやったことがあるのです。

——当時、船の中での共同生活で、気が狂う人というのはいなかったのでしょうか。

いたと思いますよ。もちろん船に乗る前に適性検査があり、だいたいどういう人が向いているか、というのもわかりますからね。

「鬼の山城、首つり赤城」(山城:戦艦 、赤城:航空母艦)と最初からいわれていましたので、戦艦だけは乗らない方がいいと思ったので「お前、どれに乗りたいのか?」と聞かれた時に「巡洋艦に乗せて下さい」といいました。
幸い、私は海兵団のトップだったので「お前は希望を聞いてやる」と言われたのです。その点では、気が楽でした。

 

友はみな亡くなってしまった、戦争の巡り合わせ

——戦後68年が経ち、お孫さんやこれからの人たちに伝えたいこと、また、今の人たちを見ていて感じることはありますか?

戦争をやらなくていいと思いますが、戦争をすると禍根は必然的に残るものでしょう。運命論者ではありませんが、戦争を経験したのは運命だったと思っています。現代に生きていて戦争に巡り合わせなかった人もいる。一報でちょうど私たちの年代が戦争にぶつかった。そして私は徴兵を延期しないで、海軍に入り、3年後に帰ってきた。かたや同級生は徴兵を延期して学徒動員にひっかかり、ガダルカナルや8月1日の空襲で亡くなってしまった。知る限り、生き残った同級生は一人もいません。
私が三河湾で一緒に船に乗ったのは84人、内地に戻ったときは5人。その後、戦死したのか転勤したのかわかりませんが、それが現実です。だから、私には軍隊にいた連中も、子供のときの知り合いも、今現在、いないのです。(了)

(インタビュー/早川洋平 文/遠藤恵美)

※このインタビュー音声は、かねてからキクタスの音声制作・編集パートナーである中川一さんの編集により配信させていただいております。また、ダイジェスト文章は、コピーライターの小川晶子さんがまとめてくださっています。多大なるサポートにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。