記憶8 亀井 博さん

後世に伝えたい、憲法9条の信念

Hiroshi Kamei 亀井 博さん
かめい・ひろし/1932年 鳥取県米子市生まれ
神奈川県海老名市在住
古書店「海老名平和書房」経営

幼少から中学1年生まで戦争の中で過ごし、教育の場で戦前と戦後の歴史認識や思想が大きく変わる経験をした亀井さん。
身近な大人が徴兵されて行く誇らしさや寂しさ、素直な子供の心で感じた、戦禍と離れた都市での生活とは。

子供心に不思議な慣習「東方遥拝」

──「戦争の記憶」で思い出すことは、どんなことでしょうか。

満州事変が始まった翌年の昭和7年に生まれ、私の幼児期・少年期はいわゆる“15年戦争”の真っただ中。戦争の中で子供時代を過ごした世代です。
終戦の昭和20年は中学1年生でした。4月に入学して8月まで、将来兵隊になるための軍事訓練を数カ月やっていました。上級生は工場へ行っていましたが、1・2年生は軍列行進(軍隊の行進)の練習や、小さな軍隊用のスコップを使ってタコつぼ堀り(空襲の際に自分1人が入れる防空壕のような穴を掘ること)をしていました。
私は戦前・戦後の生活体験もしていますし、男女共学が導入された新生高校になってから2期目の世代なので、貴重な世代だと思っています。

──戦前・戦後で一番なにが違いますか。180度違うのかな、というイメージはあるのですが。

典型的なのは、日本の歴史でしょうか。
戦前は「国史」と言い、神国日本の天照大神(あまてらすおおみかみ)という神話を歴史事実として教わっていました。天皇崇拝や、世界に冠たる神の国・日本というような、歴史を徹底的に教わっておりましたので、日本というのは、非常に優れた国だと思っていました。
ただ、朝の朝礼で「東方遥拝」という天皇陛下が住んでいる皇居がある東の空へ向かい、全校生徒が一斉に最敬礼で朝の挨拶をするのですが、毎朝8時前後に私たちは挨拶をしているとき、天皇陛下は何をしているのだろう?朝なので便所でも行っているのではなか?と、子供心に不思議に思うこともありました。

 

誇りに思った兄の名誉な出兵

──1945年当時は、どこにいらっしゃいましたか

鳥取県の米子です。18歳までいました。
米子は商業都市で、鳥取県の中では2番目に大きい都市です。
私の家は金物屋を営んでいましたが、金属は武器に使用されており、
金属で作ったものはほとんどなくなっていましたから、バケツや洗面器など販売していたものは木製でした。

──ご家族で戦争に行かれた人はいらっしゃいますか。

私は7人兄姉の末っ子で、戦争は3人の兄たちが行きました。
長男は国鉄に勤めていましたが徴兵されて中国戦線に行き、次男は米子では珍しく大学へ進学し
、そこで満州開拓に共鳴して「少年義勇軍」(1936年満州開拓移民推進計画が決議され、20年間で500万人の日本人移住、
100万戸の移民住戸建設推進のために、15〜19歳の青年を募集し編成。
農業訓練・軍事訓練後、300名単位で開拓地へ入植された)の指導者として終戦まで満州にいました。
三男は近衛兵(天皇を警護する天皇直属の軍人)として東京へ行っていました。
東京大空襲の際には、皇居の中で消火活動に当たっていたと聞いています。
当時、近衛兵は身内調査を受け、家庭が健全であり優秀で選ばれた人とされていたので、
周りの人たちも非常に名誉なことと思っていました。

送り出す時、両親は恐らく心配や不安な気持ちを持っていたと思いますが、
私はまだ小学生でしたから、兄がそのようなかたち(近衛兵)で出征するというのは名誉なことだし、
誇らしいと思っていました。
その時の兄の感情も本人に聞かなければわからないことですが、
行きたくないとか、悲観的な様子は感じませんでした。
国のため、天皇陛下のために尽くすということは、家族にとっても大変名誉であり、
嬉しいことだと思っていましたから。

──戦時中の報道は、敗戦間際まで「日本は勝っている」と報じていました。今回の取材をする中で「負けていると気づいていた」や「負けるとは思わなかった」とおっしゃる方様々なのですが、亀井さんはその報道をどのように受け止めていらっしゃいましたか。

子供でしたからね、苦戦しているとは何となく思ってはいましたけれど、戦争が終わるまで日本が負けるとは思っていなかったです。
私の家は米子でも街中で郵便局の近くにあったので、当時は公共施設近くの家は「強制疎開」という、家を壊すための立ち退きを命じられていました。それで、その準備のために倉庫を借りて荷物をそちら運んだりしていました。敗戦の数日前に疎開しなくて良くなったという「疎開延期」の知らせが来て、家は寸前のところで取り壊さずに済んだのです。今考えれば疎開延期は敗戦の気配だったのかもしれませんが、天皇の放送(玉音放送)を聞いても、敗戦の形を取って時間を稼ぐひとつの戦術なのではないか?と思っていました。それくらい、不滅を誇った日本が負けるという思いは持っていなかったのです。

戦時中は夜、「灯火管制」(外へ光りが漏れないように部屋を暗くすること)を毎日行っていましたが、8月15日の天皇の放送以来、町内会を通して暗くしなくて良いというお知らせが届き、夜、部屋にパッと電気がついた明るさに、戦争のない平和な世の中がどんなに良いかと、しみじみ感じました。
子供ですから気持ちは複雑で、戦術上降伏の形を取っているのではないか?という思いと、やっぱり負けたのではないか?その証拠に、夜、電気を煌々と付けていられるではないか。という思いが錯綜していました。
マッカーサーが日本に乗り込んで来たり、アメリカ軍が東京に進駐したりしてくると「やっぱり負けたのだ」という思いを持つようになりましたので、終戦後1カ月ぐらいは複雑な思いが続いていました。

戦時中、中学の入学試験の時には面接で「将来は何になるのか?」と先生に聞かれ「私は科学の力を持って国に尽くす、軍兵器を作る科学者になりたい」と答えた記憶があります。当時の子供達には、そういう(お国のためにという)雰囲気がありましたから。

 

米子から見た、近隣都市広島の様子

──8月6日の広島被爆を、少し離れた米子からどのように観ていましたでしょうか。

一番上の兄が軍隊で病気をして退いた後、広島の国鉄で鉄道教習所の教師みたいな仕事を行っていまして、8月15日に広島駅を降りたところで被爆した時は、もの凄く熱くて、振り払ってもなかなか治まらなかったと言っていました。「新しい新型が落ちて広島は大変な被害を被ったらしい」という話は聞きましたが、情報としては、米子の方にはあまり伝わって来なかったのです。まさかあのような全市に壊滅的な被害を被ったというような形には受け取ってはいませんでした。それだけ(軍が)情報を押さえていたのではないでしょうか。

当時、米子は人口5万ぐらいの小さな街で、夜、空襲警報で防空壕に入っていますと、朝鮮半島へ機雷を落としに行くB29が高度8000〜10000mを飛んで来る音が闇夜の中に聞こえたことや、戦闘機が来て機銃掃射でバラバラと弾薬を落として行ったことは何度かありましたが、直接爆弾を落とされることはありませんでした。東京大空襲や日本各地の都市がやられていることは、大阪で空爆を受けた人達が米子の中学へ編入してきたりして話を聞きましたが、米子ではそう言った危機感や実感はなかったですし、まさか日本が負けるとは思っていなかったのです。

 

切ない記憶、尊敬する先生の出兵

──いま振り返って、戦争にまつわることで「これだけは辛かった」と思うことはどんなことですか。

辛かったというより、ひとつの思い出として持っているのは、私が小学校4年生のときの担任のことです。先生は柔道2段で鳥取の師範学校を首席で卒業した大変優秀な方で、半年程教わったところで鳥取連帯に入隊し、母親と一緒に逢いに行ったこともあるのですが、その先生が満州に行くことになったのです。
満州へは下関から船が出るのですが、先生は山陰線を通って下関へ行かれると聞いたので、私たち生徒は列車が通過する夜7時〜8時、線路の側で待っていました。
列車がやってきて先生が顔を出すかな?と思っていたのですが、軍隊が異動するということを軍上層部は知られたくなかったのでしょう、車窓は全部ブラインドが閉まっているのです。せっかく先生が顔を出してくれるだろうと思っていたのに、ブラインドの隙間から車内の光が見えるだけで、列車が通過していきました。とてもいい先生でしたので、その時の思いがとても残っています。
その後先生は、満州からフィリピンへ渡り、斬り込み隊長で戦死してしまいました。22歳位で亡くなったと思います。

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戦争と教育のあり方

──亀井さんの営む古書店の名前は「平和書房」と出ていますし、書店内にも「戦争・平和」というキーワードがあります。戦争を経験しても戦争とは直接タッチしない方々も沢山いらっしゃる中で、それをテーマとして掲げているのは何故ですか。

だんだんと戦争体験者は亡くなっていく訳ですし、今の閣僚や首相の安倍さんも直接の戦争体験はない訳ですよね。そういうことに危機感は感じています。私は出征や被爆の経験はありませんが)何らかの形で伝えていきたいという気持ちは根強くありました。それが如実な形で残っているのが広島・長崎なのではないかと。
私が勤めていた学校は私学(法政大学女子校 社会科教師として35年間勤めた)でしたので、選択講座がありました。その中に「昭和の歴史」という講座を作り、当時、修学旅行がなかったものですから、研究旅行として講座を選択した生徒を広島へ連れて行っていました。帰って来た生徒達に広島の感想を書かせていたのです。その中のいいものを選んで、20年程前に本を出版しました。(『昭和史を学ぶ高校生たち』 亀井博 著)

──戦争から68年経って、戦争を経験していない人たちが増えている中で(世の中の)戦争の記憶が薄れていると感じますか。

感じますね。高校3年生と高校1年生の孫たちとはそういったこと(戦争)は話題になりませんから。
私の息子はカメラマンでベトナムへ行ったりするものですから、戦争のことは孫たちに話しているようです。ですから普通の子供さんより戦争のことは聞いていると思いますが、四六時中戦争の話をしている訳ではありませんのでね。折りに触れて話していく必要はあると思いますが、孫にはほとんど話していないです。
被爆した私の兄も、あまり自分の体験を話しませんでした。ですが「世界」という雑誌に、広島の体験を書いて載ったことがあり、兄は被爆直後、広島に入って同僚達の発掘作業をしたそうですが、そのことは余り話さなかったです。

 

憲法9条への思い

──強烈な体験ですから、話された後に具合が悪くなってしまう方も多いと聞きます。戦争を体験した方が少なくなる中、日本の戦争の記憶が薄れていくというのは必然と思いますが、戦争体験者の亀井さんから観て、今の日本をどのように感じますか。

「国防」という言葉には危機感を感じます。
国を守るというのは、いいことじゃないか?と思われがちですが、戦前は「国防」という名の下に侵略して行ったわけですし、それが戦争の歴史です。「国防」とか、「秘密保護法」など、あのような言葉を聞くと、危険な傾向だなと思います。「無知」というのが一番危険なことです。戦前の日本人は無関心ではなかったとは思いますが、政治について日常的に議論することはなかったと思います。とくに女性は「政治に口を挟むな、御上の言うがまま」という時代でした。「秘密保護法」が通ると、言いたいことが言えなくなるという感じがします。
私は日本が負けた直後に驚いたことが2つあるのです。一つは、神国日本が負けたという驚き。もう一つは、数少ないですが、あの時代に戦争に反対した人がいたという驚きです。

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──戦争を体験した亀井さんから、伝えたいこと何ですか。

日本国憲法9条の精神でしょうか。国際的紛争など色々あるとは思いますが、決して武力ではなく、時間がかかっても話し合いで解決するという、憲法9条の精神が支柱にならなくてはいけないと思います。(了)

(インタビュー/早川洋平 文/遠藤恵美)

※このインタビュー音声は、かねてからキクタスの音声制作・編集パートナーである中川一さんの編集により配信させていただいております。また、ダイジェスト文章は、コピーライターの遠藤恵美さんがまとめてくださっています。多大なるサポートにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。