記憶29 遠藤隆視さん
焼け野原の東京で
助け合う人々とともに生きる
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遠藤隆視さん
えんどう・たかし/昭和8年(1933年)12月24日生まれ |
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好奇心が強いガキ大将だったという遠藤さん。開戦当時7歳だった少年は、その後、戦禍を逃れて、東京から静岡、そして青森へ。B29と撃ち落とされる日本の飛行機、アメリカ軍機から受けた銃撃、焼け野原の東京と助け合う人々──。その鮮明な記憶を掘り起こしていただいた。
実感がなかった開戦のラジオ放送
──本日は戦争の記憶ということでお話を伺います。まず、お生まれはどちらになるのでしょうか。
生まれは、広尾の中央日赤病院です。昔、日赤病院があった場所は、宮代町と言いました(現在の渋谷区広尾四丁目・五丁目付近)。自宅は現在の神宮前三丁目(原宿付近)にあり、そこで育ちました。
──渋谷区で生まれ、今も東京にいらっしゃるというわけですね。
そうですね。戦後しばらく経ってからは、戦前にやっていたお米屋さんをしていました。昔はお米屋さんは個人では営業できなくて、公団制(※米穀統制制度)でした。父親がたまたまお米屋をやってて、それで強制されたのか、わからないのですが、その公団に入らないと、入るものが入らないということで。昔からずっと米屋をやってましたからね。だから米屋はどうしてもやりたいんだ、と。
──太平洋戦争の開戦時、遠藤さんは8歳だったと思います。そして、終戦を11歳で迎えられている。まず、伺いたいのですが、戦争が始まる前や始まった当初の空気はどういうものだったのでしょうか。
戦争の雰囲気は、ありました。小学校2年生か、3年生でしたが、学校で竹槍をこしらえ、裸足で遊んでいました。運動靴なんてないですよ。あったとしても貴重で。もう学年末になるとみんなボロボロです。布だけの運動靴ですかね。それを履いて生活をしていました。
それと、戦争が始まると、モノを使い捨てにしなくなりました。戦争に役立つかもしれないからと、モノを大事にするようになりました。
あと、英語は喋っちゃいけない、と言われました。英字が書いてあるやつは、みんな捨てなさいと言われましたね。それは、面白くなかったですね。自分の好きな、大切にしていたモノを目につかないようにしなさいと言われたり、破棄されたり。それが見つかると、国賊になるよと大人から言われました。でも、子どもはそんなこと知りませんからね。
──戦争が始まってからお父さんや兄弟は兵役に服したとか、そういうことはなかったのですか。
はい。家族は全然離れてないです。
──お父さんも戦争に行かなかったのですか。
年齢が年齢ですからね。父親はその頃、運送会社に勤めて自動三輪を運転していました。ちょっとしたアルコールとか、そういう軍事品を製造している会社に運んでいたんですね。だから割合、私たちは食べ物でも、衣類でも、何でも自由に手に入るような身分だったんです。
──戦争が始まった直後、家族で戦争について話した記憶はありますか?
それはないです。家族ではそんな話し合いはしてないです。
──戦争が始まるぞという時に、子ども心にどういうふうに何を思っていたのでしょうか。
昭和16年12月8日に学校から「今日、ラジオの放送があるからしっかり話を聞きなさい」と言われました。でも、私たち子どもは幼稚な連中ばかりなので、戦争は国がやるんだから、自分たちには関係ないやという感じでした。
大人は大変だったようです。これから食べるものもなくなってくるし、アメリカなら日本なんかひと握りだよ、戦争が始まったら、どこかいいところを見つけて逃げなくちゃダメだよ、と大人たちは言ってたんですよね。それを聞いてはいたけれども、本気にはならないですよね。実感がないんですよ、子どもだから。
──開戦のラジオの時は、戦争の実感がなかったけれども、そこから日々、刻々といろいろな形で、子ども心に実感が湧いてきたのでしょうか。
情報が入ってきましたから。今、フィリピンの島で、日本軍の飛行機が、アメリカの飛行機を30機とか20機とか爆撃した、とか。でもあれ、日本が大万歳とか、大勝とか言ってたけど、今思えば、何を言ってんだと思います。
──でも、そのときは遠藤さんも周りの人も「日本イケイケ」といった感じで、誰も疑いをもってなかったという感じだったのでしょうか。
日本はそんなに強いのかなって思ってました。戦果を挙げたとか言って。そう、戦果がいいという話ばかりしてたんですよね。要するにデマ放送ですね。
静岡へ疎開。日本の劣勢を感じて
──疎開はどちらにされたのでしょうか。
静岡県に疎開したんです。一番最初は静岡県の可睡斎(※静岡県袋井市にある秋葉総本殿 可睡斎のことと想定される)。今でもあります。山の上なんですよね。
──疎開の際は、同じ学校の人たちがみんな一緒に行ったんですか?
クラスごとなんです。あんまり仲のいい人はこう、逆に(別の疎開先へ)。学校の方でもいろいろ考えたんでしょうね。
──クラスごとということですが、先生も一緒に行ってるんですか?
そうです。先生も一緒に行っています。先生が一番の親分です。
──そういう意味では、クラスのみんなでの長い集団生活みたいな感じということですね。
そうですね。先生は、時期と時間を考えて、安全なときに外出させてくれていました。
──疎開が決まったときは、どのように感じましたか? 家族みんなで行ったわけじゃないですよね?
家族は行きません。子どもだけです。弟が一緒にいたんです。弟は1学年下なので。学童疎開して、一緒に暮らしました。
──静岡に疎開したのは、いつぐらいなのでしょうか。
静岡への疎開は小学校4年(昭和18年〜19年)でした。
──静岡には結局どのくらいいたんですか。
1年ちょっとですね。
静岡の疎開先では、お寺の本堂で寝かされました。自分の親たちが用意してくれた布団で寝るのですが、体が大きくなっちゃったから、布団から足が出てしまうんです。そうすると、冬は寒いので霜焼けになって、歩けなくなってしまったんです。ひどい水ぶくれで。
それを寮母さん、寮父さんが気づいてくれて。「これはひどい。明日、医者に連れていくからね」と。それで、町のお医者さんにおぶって連れていってくれて。そこで皮を切ってもらいました。
それから1週間くらいお医者さんに通うことになったのですが、病院まで歩いて20分以上掛かるんです。その道を寮母さんが私をおぶって連れていってくれたんです。
──静岡では、空襲に遭ったと思うのですが、爆撃があったり、近所で誰かが亡くなったりとか、そういうことが具体的にあったわけではないんですか。
はい。静岡の時はそんな空気はありませんでした。ただ本当に、のほほんという感じです。戦争のせの字も話題にならなかった気がしますよ。
──そんななかで、栄養も満足に取れない状況だったのでしょうか。
食べ物は、お米だけの一膳飯でした。長机にみんなで座って食べてました。静岡のときはおかずがなくて、寂しかったですね。最初の頃は良かったんです。これはすごい、家にいるよりいいや、と。家にいれば、お米のご飯なんて食べられません。食べられたとしても雑炊ぐらいのものです。それにナス、カボチャ、ダイコン、ホウレンソウなど切ったものばかり。汁が多い雑炊です。家ではそんなものを食べてたから、静岡のご飯はかえってご馳走でした。
──でも、子どもたちはお腹が空いてたんじゃないですか?
お腹は空いてるけど、みんなそれで慣れてしまうんです、どういうわけか。3時のおやつはなかったですね。それでもあれが食べたい、これが食べたいという気持ちにはなりませんでした。もらったものはすぐに食べる。人が食べているものを「欲しい」と言って、分けてもらったことはありますが、それくらいのものですね。
──そのお寺に疎開していた人の人数は、どれくらいだったんですか。同じ学校の同じクラスの人だけだったんですか。例えば他の地域からも来ていたのでしょうか。
ほかに原宿国民女学校とか3、4校ぐらい、最初は150人くらいいたんです。そのうちに子どもたちの親も(別の場所へ)疎開するようになります。それで、子どもを一緒に連れていくということで、引き取りに来ていました。
──遠藤さんは、寂しい気持ちはなかったのでしょうか。
寂しいのは寂しいです。でも、みんな同じ境遇ですからね。
──寂しいけど、孤独というのとはちょっと違っていたということですね。
そうです。みんな同じ境遇だから、逆に楽しいことを探したりしていました。
──お話を聞いていると、遠藤さんはいい意味で気持ちが強いと感じますが、疎開すると決まったとき、親と離れる不安とか、泣いたとか、どんな感じだったのでしょうか。
やっぱりある程度は、もう仕方ないなという感じでいました。
──疎開先では、どんな遊びをしていたんですか? 何か楽しかった遊びとか思い出はありますか?
兵隊ごっこをしていました。最初は兵隊ごっこをにぎやかにやっていましたけど、そのうちにこういうことやっていてはダメだとなって、訓練だけやろうと。それで、竹を取ってきて、どっちが鋭く切れるかとか、丸まってちゃダメだよとか、子どもながらに、(戦争を)感じながら遊んでいました。
──やっぱり遊びではあるけど、ちょっと非日常ですよね。戦争と向き合ってる遊びですよね。
そうです。遊び道具といっても、(既製の)コマやベーゴマとか、そういったものはありません。だから、木でコマをこしらえようとか、そういった工作物をつくっていました。
──静岡では、ご両親と手紙のやりとりはあったのですか。
ありました。あるけれども、それも期限が決められていまして。いついつにこういうことをやるから、と。手紙はもらいましたが、学校検閲があるから、直接はもらえません。本当のことを書けなくても、子どもながらに知恵が働いてくるんですよね。だから、そういうこと(手紙)には全然興味がなかった。
──勉強不足ですみません。もしわかれば教えていただきたいんですけど、疎開してお寺がお世話をすると思うのですが、そのお金は親御さんが納めていたのでしょうか。
お金は持ってないと思います。
──では、完全にお寺側のご好意で面倒を見てくれていたということですか? 寝泊まりと食事と。
そういうのは国が出していたと思います。私たち渋谷区なら渋谷区が出している。子どもたち本人には渡ってないです。運のいい人たちは、親にお金を送ってもらうんです。ところが、モノを売っているお店がないから、お金も使えない。
──あまり意味がないということですね。
意味がないんです。
──静岡では空襲に遭いましたか。
遭いました。空襲警報のサイレンがフワーって鳴ると、もうB29が空を飛んでるんです。それで小さい豆粒みたいな日本の戦闘機がB29の編隊を追いかけて、鉄砲を撃っているのか、わからないのですが、時々パッパッと火が見えるんです。ところが、全然効かないんです。落ちてくるのは、小さい飛行機ばかり。そんなものを見てしまっているので、ああ、全然ダメだと思いましたね。
※静岡では戦争の雰囲気はなかったということと、静岡で空襲に遭ったことをお話しいただいておりますが、両方を掲載しております。
──ニュースと違うな、と。
もうニュースと全然違います。敵の方が大きくて、味方が小さくて、味方がやられてるじゃないかと思うわけです。
しばらくたって春が来ると、空襲が激しくなってきました。B29を見たのは、6月の梅雨明けぐらいかな。そろそろ、安全な青森に行かなきゃいけないよということになりました。
静岡から青森へ。30秒だけの両親との再会
──空襲が激しくなったことで、静岡から青森へ移動されました。移動はどのような感じだったのでしょうか。
静岡から青森へ行ったときのことは、一番の思い出なんです。移動手段は貸し切りの電車です。青森へ行く途中、電車は東京を通りました。そして、真夜中に原宿駅に着いたんです。原宿駅で親が待っているということで、親の顔が見られると。車内は真っ暗。こんなに暗くて見えるかいと思ったのですが。それで、いざ原宿駅に着いたら、駅は真っ暗、列車も真っ暗、本当に真っ暗でわからない。そこで30秒だけ停まったんです。
真っ暗でわからないので、親子がお互いの名前を呼び合うわけです。そうすると、みんなくる(会える)。ただ、そこで会って、見ただけでおしまい。
親とすれば子どもが何を食べているのか分からないということで、残ったご飯を干したものと、大豆の炒ったものを袋に入れて渡された。それは覚えていますね。それで、青森へ行くまでに、それをポリポリポリポリ食べて、喜んでいたと思います。
──その袋は、直接ご両親からもらったのですか。
そうそう。
──直接お話はできたのですか。その時、お父さんお母さんから掛けられた言葉を覚えていますか。
覚えていないです。声を掛ける暇もないので。
──一瞬ですもんね。30秒で何とか渡すのが精一杯ですね。
そういう話をしちゃいけないということなんですね。そういう面で厳しさもあったし、そういう楽しさもあったし、生涯忘れられない思い出です。親というものは、ああやって子どもを大事に思ってるんだなと。愛情というものが初めてわかりました。
青森での疎開生活
──青森でもお寺での生活だったのでしょうか。
青森でもお寺での生活です。青森は、遠いから戦争の影響も大丈夫だということで、良かったですね。野山を観察して勉強していました。一番楽しかったのは、山へ行った時に松茸取りをやって、それで松茸ご飯を食べたこと。食べ放題です。また、あるときは湖に行って、タニシを取ってきました。それで、タニシを煮たものを食べさせてくれたり。
──タニシは美味しかったですか?
美味しいですよ。
冬には焚き木を蓄えなきゃいけないということで、リンゴ畑を抜けて山に焚き木を取りにいきました。焚き木を毎日毎日、背負って帰ってくる。大きい木はノコギリで切ったりしていました。
小学校での勉強なんてほとんどないです。畑仕事や稲刈りを手伝ったり、そういうことをやっていました。ほとんどが農作業です。
リンゴは、毎日の焚き木集めのとき、バレないようにリンゴ畑に入って、青いリンゴでも何でもいいから取ってました。そういうことを村の人たちは、あまりうるさく言わないんです。何しろ食べたいものがありませんから。そのリンゴを先生に見つからないよう夜中に布団をかぶって、ガリガリと食べていた。ただ、青いリンゴだから硬かった。
──闇でガリガリと音がしている。
見っかっちゃって大騒ぎになったことがあります。
アメリカ軍機に銃撃される
──青森では、ほかにどんな出来事が印象に残っていますか。
私はその頃、言うことを聞かないガキ大将の王でしたから、先生の言うことを聞かずに、空襲警報が出ても、一人で街中へ行きました。好奇心が強かったんです。
あるとき、アメリカ軍機が単機で旋回しながら(地上の)様子を見ていたんです。(偵察が任務といっても)攻撃は少しはできる。その飛行機に狙われたことがあるんです。畑の中なら大丈夫だろうと思っていたのですが、撃ってきました。だから急いで畑の溝に隠れて助かったことがあります。
──それはさすがに死を覚悟しますよね。
もうダメかなと思いました。
──そのときは、空襲警報は出ていたんですか。
空襲警報は出ていませんでした。だから外に出られたんです。そこのお寺にお墓があったのですが、空襲があったので、お寺の和尚さんもお墓がどうなっているか、見にきていました。私も一緒に見ました。そうしたら、命中しなかった弾が土の中に潜り込んでいる。そこで、和尚さんが「遠ちゃん、弾を掘ってみよう」ということで、掘り出したこともありました。
その4、5日前には、神社の道路に爆弾が落とされました。建物に落ちていたら大変でした。爆弾で深い穴ができているかと思ったら、浅いんです。火災はなかったのですが、浅くてふわーっといく(※周囲に爆風が広がっていくことと想定される)から、周りの家が全部ガラスがなくなったり、玄関とかもなくなったりしていました。
子どもながらに感じていた戦況
──戦争の情報を得ることはできていたのでしょうか。
昔は、耳と目が良いとよく言われました。耳がいいので、内緒話ができないっていう風に言われたこともあります。だから、情報を得るのが早かった。
──そうすると、戦況とか分かってしまいますよね。
子ども同士で話をする時と、大人同士の話では全然違いますよね。私は大人の話を聞いて、それで想像してしまうんですよ。
──しかも小6ぐらいなら、いろいろとわかりますよね。
だから生意気を言ってるとよく言われました。先生に睨まれて。
──でも、遠藤さんもそうですが、小学校6年生くらいだったら、みんな状況をわかっているわけですよね。
もうダメだと、日本は負けてしまっているということはわかっている。
──子ども同士でも、そうしたことを話したのですか。
話しました。
──どんな感じで話をしていたのでしょうか。
日本は戦争に負けてないよとか、最初はみんな反発するんですよね。ただ、だんだん生活が貧しくなってきて、お米は食べられなくなり、肉も食べられなくなります。肉なんかほとんど食べられません。魚もそうです。
だから、お盆のときは、子どもたちがかわいそうだということで、地元の人たちが湖に行って、魚を取ってきてくれる。最初のうちは、そんな感じだったのですが、慣れてくると畑仕事をさせられました。村の人たちは畑仕事さえできないぐらいに、みんな軍の工場に徴用されているんです。
──戦況の話は、先生はしなかったのでしょうか。
しません。それは一番言いませんよ。大変なことになりますから。
──東京も大空襲など多くの空襲がありました。そういう情報は入っていたのでしょうか。?
東京の空襲があったことは知らなかったんです。
──知らなかったんですか。あの3月の大きな空襲を。
知らないですし、教えてもくれないんです。
──広島と長崎の原爆はどうでしたか? 情報は入っていましたか?
原爆のことも聞いていません。大きな爆弾が落ちて、それで日本は戦争に負けることになった。だからもう日本は勝てないよという話がありました。
頭のいい人はいろいろと推察するじゃないですか。それで仕方がないという流れになる。
──良くも悪くもあんまり余計なことは考えなかったと。
考えないです。考えないし、考える時間を与えてくれません。
──弟さんと一緒に疎開していたわけですが、弟さんとはどのようなお話をされましたか。
兄弟だからといっても、話はしませんでした。ちょこちょこと話をするようになったのは、8月15日以降ですね。家に帰ったらどうしようかとか。
玉音放送を聞く
──玉音放送は聞いたんですか? その時、どんなことを思いました?
8月15日に「今日、みんなでお寺でラジオ放送を聞きましょう」ということで。(聞いても)何言ってんのか、と。己がどうのこうの、朕はなんとか、とか。(誰かに)「わかっているか? 戦争はもう終わったんだよ」と言われました。
──実際その時に何を思いましたか?
じゃあ、これで家に帰れるのかなと思いました。けれども、帰っても家があるのだろうかとも思いました。周囲は、ちょっと安心した気持ちになっていたかもしれませんけど。
それで、8月15日から2、3日経って、先生から「家に帰る、ここを引き上げる」という話がありました。
忘れもしない、終戦から5日くらい経った頃か、「みんな、リュックサックを空っぽにしておくように」と言われ、なんだろうと思っていました。そうしたら、リンゴを持ってかえるためだったんです。リンゴが入ったリュックサックを背負って東京に帰ってきて、しばらくは、親も兄弟もリンゴを食べていました。
終戦──。原宿に戻る
──終戦して、東京に帰ったときは、青森からまた電車で帰るんですよね。原宿の駅はあったのでしょうか。
原宿の駅はありました。
──そこにお父さん、お母さんが迎えに来てくれてたんですか。
いえ、迎えには来ないです。あのとき、帰りは原宿駅で降りたのか、どこで降りたのか、記憶がありません。
──ご両親と再会した時に、ご両親がうれしくて泣いたとか、掛けられた言葉とか、何か覚えていますか。
ほとんど覚えていません。
──東京に帰ってきたときには、どのようなことを感じたのでしょうか。
帰ってきたときに驚いたことは覚えています。ともかく、何にもないんです。焼け野原です。私の家は、原宿一丁目だけど、原宿は新宿より少し土地が高い位置にあるんです。そこから新宿の伊勢丹が見えました。それくらいの焼け野原でした。
親たちがどんな感じか、暮らしがどうなるか、ということよりも、まず帰ってきたときに、家がないじゃないか、どこに寝るんだろうと思いました。「どこに寝るの?」と聞いたら、「ここだよ」と。見たら焼けぼっくいの柱が立ってて、周りはトタンで(囲って)。中にむしろですかね。むしろがあるなら、まだいい方だけど、何にもないところもあるんです。そこで寝るんです。家族8人で一緒に寝る。
──大空襲もあって、それだけの焼け野原ですし、同級生の中には家族を亡くした人もいっぱいいたんじゃないですか?
いました。終戦してから情報が先生のところに集まってきました。「彼の親は1日頃に爆撃を受けて死んだ」といった情報が先生たちに入っていました。戦争が終わってから、子どもたちに対して「家に帰ってもお父さん、お母さんはいないよ」といったことを個々に話すわけです。
──帰ったら誰もいないっていう人もいたかもしれないですよね。
そうかもしれません。でも、そういう子たちはどうしてるのかなという気持ちも湧きませんでした。自分のことだけを考えないといけない。やっぱり今までの生活よりもっとひどかったので。
──戦争は終わったけど、生活はもっとひどくなってるわけですね。
どんどんどんどん苦しくなっていきました。
青森のリンゴ、焼け野原の水
──食べ物はどのような感じだったのでしょうか。
青森でもらったリンゴは、兄弟二人で持ってかえってきていたので、結構な量がありました。
──貴重な食料ですね。
本当に食べるものがありませんでしたから。水道はあったけど、ガスはありませんでした。だから、お風呂に入るといっても、父親が街中歩いてドラム缶だとかを集めてきて、露天風呂にして入りました。焚き木は、いくら焼け野原といっても、大きな柱の燃えかすが残ってました。
──焚き木は、困らなそうですね。
燃料は不自由しなくてよかった。
あとは水ですね。水は、チョロチョロチョロチョロとしか出なくて、30分経たないと、この容器(いっぱいにならない)、入れ物といっても、焼き跡からもらってきた洗面器だとか、これは水受けになる、これは手洗い桶になるなというものを集めては使っていました。その容器に水が溜まるまでが大変だったことを覚えていますね。
買い出しと闇市
買い出しは結構流行っていたんですよ。たとえば、埼玉県の所沢へ行くと、美味しいサツマイモがあるけれども、値段は高かったです。遠い村まで行かなくちゃダメだよとか、そういうことが話題に上りました。
闇市もありました。一皿10円が多かったですね。芋屋があり、おからのお寿司もあった。お寿司のシャリがおからなんです。魚なんてないです。あってもイワシくらいです。そこへ友達同士でお金を持ち寄って食べに行ってました。今の新宿の南口は、闇市の本場だったんです。
そんな闇市もだんだん贅沢になってくる。あの頃は世の中賑やかでした。
──やっぱりエネルギーはあったでしょうね。街にも人にも。
ありました。
占領軍とチョコレート
──占領軍は近くにいたのでしょうか。
今の国立競技場の前の池を占領軍の兵士が散歩していました。
それで、私たちは、「チューインガムをくれ、チョコレートをくれ」と言ってました。
──実際もらえたんですか。
なかなかもらえなかったです。池を素っ裸になって泳いだら、やっとチョコレートを半分とか、ガムを1枚とかくれましたね。
再開した授業、先生の世間話
──学校の授業が再開したのは、いつ頃からなんですか。帰ってすぐに授業が始まったわけではないですよね。
しばらく学校はありませんでした。年が明けてからですね。
──学校の授業は、戦中と戦後で大きく変わったと思うんです。同じ先生が言うことが180度変わったみたいなことはなかったんですか? また、教科書が黒塗りされていたということも聞いたことがあるのですが。
そういうことはありませんでした。そもそも教科書がないので。だから先生の話は世間話でした。
勉強は算数が多かったのを覚えています。足し算とか掛け算とか。掛け算の復習とかを主にやってましたね。それと、絵を描くとか、習字とか。習字といっても、筆も墨もない。鉛筆もろくなものがありませんでした。
ないものばっかりだったから、先生は世間話をしていました。先生はそこでストレスを解消してたのか、そんな時代でしたね。
助け合う人々と復興に向かう日本
──戦争が終わって、東京に帰ってきても、モノがなくて、そんな大変な中でも、遠藤さんやその周りには、復興に向けたエネルギーみたいな空気があったんですかね。
今、考えてみれば、そういう空気は流れてなかったですね。自然の現象でそういう空気ができ上がるのかもしれません。このままでは、仕方ないから、街を少し賑やかにして、みんなで協力し合おう、と。協力する体制が今の時代と比べて全然違うと思います。ボランティアの気持ちがグンと強かったですね。
──助け合いが当たり前みたいな感じでしょうか。
人と会うのが当たり前だというような。そういう人たちが多いから、みんないろいろ知恵を出し合っていました。町のためにこういうことをやろうとか、ここを直さなきゃいけない、とか。戦争が終わった直後だから、まだ昔の隣組は解散していなかった。だから「ここを直すには第何班が」と言っても話が通じます。何班は何時に工事を始めて、スコップがある人はスコップを持ってきて、そういった形で工事をしよう、と。すると、だんだんだんだん復興するんですよね。
──大変だけど、状況がみんな一緒だから、復興の時もみんなが助け合いの気持ちをもっていた。ごちゃごちゃ考えずに、そうするのが当たり前という空気だったということですね。
そうそうそうそう。そういうことです。だから、これをしちゃいけない、あれをしちゃいけないという「しちゃいけない」という言葉がなかったですね。
だから単純人間なんですよね。みんながやろうって言えば、「おお、やろう」となりました。「みんなで楽しくやろうよ」ということです。食べるものもない状況。地方に親戚がいる人たちが、その地方から送られてくるものを大事に食べて、それでまあ仲のいい人たちに少しは(あげました)。
お互いに助け合う空気が強かったですね。ボランティアのようなもの。だからイジメなんてなかったです。
──もっと言うと、ボランティアという概念すらなかったかもしれないですね。
そうそうそうそう。あそこの家は(作業に)出てこないということはなかった。そもそも定職がありませんから、収入もありません。
──みんな無職でこれからどうする?という感じですね。
だから、みんな同類なんです。気持ちは同じだから。だからまとまったんですよね。今でも不思議ですよ。今の日本、そんな風に作れば、こんな世界にならなかった。
──最初はいい意味で無心でやって、迷いはなかったと思うんですけど、遠藤さんのなかで、やっと日本というか、自分も家族も含めて復興してきたな、ちょっと未来を考えられそうだな、と思ったのはいつぐらいですかね。
そういうふうに感じたのは、どうなんでしょう。別に感じはしませんでしたね。
──どこかで一息つけた瞬間はなかったでしょうか。
そう。ないですね。
──今に至るまであっという間という感じではないですよね、さすがに。
どんな生活をするとか、文明的なことを考えるとか、そういったのはなかったですね。無心で「なるようになれ」という感じでした。
──今日話していただいた戦争体験は、遠藤さんの人生にどう影響してきましたか。
やっぱり勉強になってますね、現在でも。人との接し方が勉強になりましたね。
──それは、たとえばどんなことですか。
今こうやって話していても、人の話も聞かなきゃいけない。昔は人の話など聞かなかったですからね。食べるのに精一杯ですから。
子どもたち、そして未来を生きる人々へのメッセージ
──今日、お話しいただいたような戦争体験の話をお子さんやお孫さんにお話しされたことはあったのですか?
あまりないですね。
──それはなぜですか。
やっぱり今は、そんな世の中じゃないな、と。話しても無駄だと。そういう経験はさせないよという気持ちの方が強いから、話したって無駄だと思います。
──そういう経験をさせたくないけど、話さない方がいいと思うんですか。
話したって信用できないと思います。見たこともないし、闇市といっても、どんなものかわからないでしょう。そんなことを教えても、今の時代にマッチしないと思います。
──今回こういう機会をいただいて、遠藤さんが経験したことの1%もわかったとは言えないですけれども、それでも直接、経験した方からお話を聞いて、こうやって残すことはやっぱり意味があると思いました。
今日のインタビューは、インターネットのおかげで50年、100年経ってもこの声は残ると思うんです。なので、このインタビューをリアルタイムに聞く人たち、子どもかもしれないし、あるいは、まだ生まれていない未来を生きる人たちに対して、何か一言、伝えたいことがあるとしたら、何でしょうか。
自分を信じることですね。親が言ったからといって、それは確かにいいことならいいけど、そうじゃない場合だってあります。自分の考え方と親の考え方は、ある程度は同じかもしれないけれど、違うところだってあるわけです。だから、自分の信念は自分の信念として、持ってる方が強いと思いますね。強いと思いますし、世の中を渡っていく力になるじゃないですか。だから自分を信じろということだけを言いたいですね。
<了>
(インタビュー/早川洋平 文/山田 隆)
2025年7月11日取材