記憶11 須賀 アヤノさん

見知らぬ土地での空爆の恐怖

Ayano Suga 須賀 アヤノさん

すが・あやの/昭和3年11月5日生まれ
広島県呉市大崎下島在住

自分の意思で故郷を離れ、東京での生活を選んだアヤノさん。その東京で見た戦時中の光景とはーー

東京で働くことを決めた理由、そして現実の生活とは

——アヤノさんはここ、大崎下島で生まれたのですか?

いえ、愛媛県松山市です。ここから松山まではかなり時間がかかります。

——こちらに来たのはいつごろでしょうか?

もう50年くらい前になりますね。

——第二次世界大戦中、どこでどうに過ごしていらっしゃいましたか?

当時女性は挺身隊として軍需工場や色々な場所で働いていました(挺身隊:戦時中に創設された勤労奉仕団体の一つ)。学校は卒業していましたが、挺身隊に入る生活が嫌でしたので、親に内緒で東京の造幣局の採用試験を受けたところ採用されたのです。出発10日前頃、「挺身隊だとどこに行くかがわからないので嫌だった。だからこの造幣局の試験を受けたところ合格したので行かせてほしい」と両親に頼みました。最初は反対されましたが毎日のように「行かせてほしい」と何度も頼みました。その結果東京へ行く許しが出ました。父親は「アヤノはもうこの世にいないものとして東京行きを許可する」ということでした。
その時まで東京へは一度も行ったことがありませんでした。どこに行ってもわからないところばかり。戦中ですので食べるものも十分にありませんし、買いに行くものもありません。そういう状況でしたので、母が色々な物を送ってくれましたね。また、私のいとこが東京の池袋に住んでおりました。母はそのいとこの家にお米等を送ってくれました。そしていとこが料理し、毎週土曜日に私のところへ持ってきてくれたんです。

日々の仕事で思い出すことといえば、出勤して造幣局の中に入るとき。いつも体中を調べられるのです。退勤時も同じ。体全部を触られたのです。

——何を調べていたのですか?

お金を作るところだからそれだけセキュリティが厳しかったのだと思います。。当時は1円が今の1万円くらいのの価値があったはず。保管するときは絹のひもで縛って保管していました。ある時、同僚の女性がひもしばったものをポケットにいれたまま退勤しようとして、捕まったこともありました。その時は一同職場から出してもらえませんでしたね。

そしてだんだんと戦争が激しくなっていきました。アメリカの飛行機が職場近くに落ちて、兵士の手がもげたのを見ました。それを見たことで気持ちが悪い日が何日間か続いたことを覚えています。
そして次第に毎晩のように空襲が始まりました。空襲があったときはみんなで防空壕に隠れていました。ところがある一日だけ目が覚めたとき、当時5人部屋だった寮に誰もいなかったことがありました。しばらくすると4人が帰ってきたので事情を確認したところ、昨晩空襲があり防空壕に避難していたということ、そして私が先に避難していたと皆が思っていたことがわかりました。

空襲が続く中、造幣局の課長が東京に来たばかりの私達のことをとても心配して下さいました。その方は空襲でもし何かあったら僕のところに来なさい、一緒に逃げようとおっしゃってくれましたね。
ただ、日々の仕事についてですが、毎日の空襲で身が入らない状態でした。

ある日、大阪に住んでいた私のいとこがこちらまで訪ねてきてくれました。
その理由は私の父の体の具合が悪いので私を連れて帰るためでした。状況を会社の人に説明し、荷物も働いて貯めたお金も持って帰ることにしました。
帰る前に池袋に住んでいたいとこのところへ行きました。父の体の具合が悪いのになぜ池袋に寄り道するのかがわかりませんでしたが、そこで父親の具合が悪いのではなく、東京での空襲が激しくなるのでそれを心配して私を連れて帰ることになったということがわかりました。

——造幣局時代は寮に住んでいらっしゃったのですよね? 寮はどこにあったのでしょうか? また造幣局に入ること自体非常に難しく、全国から人が集まったと思われるのですが、そのあたりはどうでしたか?

東京の滝野川というところに寮がありました。造幣局には愛媛県の宇和島から一人、松山からは私を含め2人の合計3名はいましたが、他の人は知りませんでした。

——当時、女性が軍需工場で働くことは普通だったのでしょうか?

そうです。

——アヤノさんは軍需工場で働きたくなくて造幣局の試験を受けたとおっしゃっていましたが、その造幣局の試験を受けるという発想に圧倒されました。

私も何がなんだかまったくわからなかったのです。東京に行っても方向もわからず、距離の間隔もつかめませんでした。とはいっても軍需工場や決められた場所で働くことよりも自分自身で決めた職場で働くことが自分にとっても良いことだと思っていましたので、こちらの道を選びました。

——アヤノさんご自身、自分の道は自分で決めるという考え方をお持ちなのでしょうね。たとえその時戦争がなかったとしても。

それはありましたね。

——造幣局に受かって、生まれ育った場所を離れるということに寂しさを感じましたか?

寂しかったですよ。両親と会うのもこれが最後かな、と思いました。

——東京にはどのくらい住んでいらっしゃったのですか?また大阪のいとこの方が迎えにきて連れ戻された後、再び東京には出ましたか?

2年くらい住んでいました。昭和16年か17年くらいからですね。一度戻ってからは東京には出ていきませんでした。その時は毎日のように東京では空襲があってましたから、そのいとこから絶対に東京に行ったらだめだと言われてました。東京大空襲は私が帰ってからでしたので、その被害は受けていません。
またそのいとこのことですが、私を連れて戻ったあと、海軍に入りました。そして東シナ海あたりで爆撃に遭い戦死しました。

——そのいとこの方とアヤノさんは同年代だったのですか?

5歳くらい離れていました。
もしそのいとこが私を連れ戻しに来ていなかったとしたら、私は戦争で死んでいたでしょうね。

 

空襲の恐怖を感じながらの生活、そして故郷の家族のこと

——東京大空襲の前にも空襲は起こっていましたが、実際にはどのくらいの頻度で空襲があったのでしょうか?

入局時、空襲はありませんでしたが、半年くらいたったころに少しずつサイレンの回数が増えていきました。日に日にひどくなっていきましたね。いとこが私を連れに来た時は一日に何回も空襲があり、ひどかった。
おそらく池袋にいたいとこが大阪のいとこに知らせたのでしょうね、この東京の空襲の様子を。もし私が空襲に遭ったら死んでしまうからと。池袋のいとこもそののち松山に帰ってきたので無事でした。

——空襲がひどくなったとき、生きた心地はしなかったのではないでしょうか?

本当に怖かったです。空襲で飛行機が二機落ちた時、それは本当に恐ろしかった。

——朝から晩まで時間に関係なく空襲は起こっていたのですよね?

そうです。仕事をしている時も起こりました。空襲があったら課ごとに集まり、その課の上長が部下を指揮し、避難場所を決めたりしていましたね。

——造幣局も国の機関のひとつ。、戦争に対する、国が握っている情報や雰囲気が伝わってきた、ということはありませんでしたか?

全然。本当に何もなかったです。

——振り返ると、東京に2年間いらっしゃった中で命の危険を感じたこともあったかと思いますが、そういった状況の中でもアヤノさんを支えていた何か、また楽しかった時間などありましたか? たとえば寮生活の中での出来事や仕事がお休みの日など。

休みの日には会社の上司が上野公園、東京タワーへ連れて行ってくれましたね。

——松山に戻ってからも空襲の脅威というものもありましたか?

そうですね。松山で空襲があったときも怖かったです。そしてその次は広島ですよね。本当に戦争は怖かったです。

——アヤノさんのご両親やご兄弟の方々は当時松山でどのような状況でいらっしゃったかご存じですか?

松山市の中心部から離れていたところに住んでいましたので、市内にいるよりは安全だったようですね。

——お父様は当時どのようなお仕事をされていたのですか?

父は農業をしておりました。そのおかげで食べ物に困ることはなかったですね。
お米、麦、豆……色々作っていましたね。

——国に強制的に作ったものを徴収されるということはなかったのでしょうか?

ありましたね。お米はほとんど持っていかれました。お米の量に対して麦はその倍入れて一緒に炊くことが多かったようですね。ただ、我が家の場合はそこまで麦を入れて炊くことにはならなかったようです。

——アヤノさんはご兄弟の中では何番目ですか?

5人兄弟のうちの2番目です。姉、私、妹、妹、弟の順番ですね。一番下の弟が父の跡を継いでいます。

——弟さんとアヤノさんはかなり歳が離れているかと思いますが、そうするとご家族の中で直接戦争に行ったという方はいらっしゃらなかったのでしょうか?

幸いにも戦地に向かった兄姉はいませんでした。

——こういう状況を改めて振り返ると、東京の、しかも造幣局に勤務するということは本当にすごいことだと思うのですが……。

わたしも振り返ってみると同じように思いました。よくここに入れたなあと自分自身で感心しました。

 

終戦を迎えた当日、過去を振り返りながら未来を見つめるまで

——8月15日の終戦の日についてどのように感じていたか教えていただけますか?

玉音放送は勤務先の郵便局で聞きました。その時は本当に知らないうちに涙が出てきて ……戦争に負けた悔しさや天皇陛下のお気持ちを思うと涙が出ました。

——戦争が終わって「ホッとした」という感覚はありませんでしたか?

それはありませんでした。どうに表現したら良いかわかりませんが、悔しい気持ちと天皇陛下がどれほど考えられて、お辛い気持ちの中でこの放送をされたかと思うと、ホッとしたということはありませんでした。

——郵便局で聞かれたということでしたが、他のお客様もいらっしゃったと思います。その時ラジオで「今から天皇陛下のお言葉がある」という主のメッセージは流れたのでしょうか?

そうですね。天皇陛下の何かがこれからありますという感じでしたね。はっきりは覚えていないのですが。そこで戦争に負けたという内容のものが放送されましたね。

——その時の郵便局の雰囲気はどのような感じでしたか?

シーンとしてしまいましたよ。あっけにとられて聞き入っていた方もいらっしゃいました。

——その後現実を受け入れるようになるまでどのくらい時間がかかりましたか?
たとえば数日たったら気持ちが切り替わっていたのでしょうか?

負けて数日したらアメリカ兵が来たのですよ。それが怖かったですね。それまではアメリカ兵を実際に見たことはありませんでしたから。東京の空襲で飛行機が落ちた時に彼らを見たことはありましたが、それ以外で見たことはなかったです。実際に会ったら怖くて、それこそ子どもが逃げ回るような感じで私も逃げ回っていましたね。

——次第にその印象が変わっていったというのはありましたか? 怖さを感じなくなった、もしくはずっと怖いままだったとか……。

1年は怖かったですね。

——8月15日は「歴史的」には戦争は終わりましたが、全部が急に変わったわけではなかったですよね?

変わりませんでした。徐々に変わっていった感じです。

——未来を描けるようになったのはいつ頃からでしたか?

3年ぐらい経ってからでしょうか。日本は戦争に負けたということがようやく受け入れるようになったのはこの頃からだと思います。

——昭和20年で終戦を迎え、それから3年、昭和23年、その3年間は激動だったと思います。アヤノさんのように現実を受け入れるのに3年かかった方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃったのでしょうか?

人それぞれだったと思いますね。

——アヤノさんは郵便局でしばらく勤務されていて、こちらに来たのはその数年後でしょうか? それはご結婚がきっかけだったのでしょうか?

そうですね。

——戦争の経験を東京と松山でされたということですが、改めて振り返ってみて、これだけは本当に一番辛かったということはどんなことだったか教えていただけますか?

東京にいて空襲があったときですね。空襲があるたびに、「これが最後かな、これが最後かな」と思って逃げていましたから。

——目の前で爆弾が落ちたのも見てらっしゃるのですよね?

はい。それとアメリカのパイロットが乗った飛行機が造幣局のあたりに二機落ちたのも見ました。これが一番気持ち悪かったし怖かったように思います。

——先ほどのお話で、一日に何度も空襲があったということですが、寝るときに生きている感じがしない、とか明日を迎えられないかもしれないとかそのような考えが頭をよぎることはありませんでしたか?

ありましたね。寝るときでも何かあったらすぐに飛び出せるような恰好で寝ていました。

——松山に戻ってこられたときはすでに戦争は敗色濃厚だったかと思いますが、アヤノさんご自身、またご家族の方はその状況をどのように見ていらっしゃいましたか? 実際には日本の優勢が報道では伝えられていましたが……。

ほとんどの人々が日本が負けるわけがないと言っていましたからね。だから玉音放送があった時、日本の負けがわかったとき、本当にがっかりしたのではないでしょうか。

——当時、色々な立場の方がいらっしゃったかと思います。戦争に行きたくない、という人々に対して「非国民だ」ということで扱われていたという話を聞いたことがありますが、そういう雰囲気は全体的にやはりあったのでしょうか?

それこそ赤紙ですよね。赤紙が来たら否が応でも行かないといけないですからね。行きたくないという人を責める雰囲気はありませんでしたね。

——アヤノさんのご家族についてですが、みなさん全員ご無事だったのですよね?

はい。全員無事でした。母も95歳まで元気で生きましたね。亡くなる1週間前まで元気でしたね。父は86歳で亡くなりました。祖母も95歳まで生きました。

——年8月15日に戦争が終わりましたが、「もう命を奪われることはないだろう」と思えるようになったのはいつごろでしょうか?

そうですね。終わった時点でこれからもっと働ける、と思いましたね。
それまではいつ死ぬか、明日死ぬか、今日死ぬのかといった思いが自分の頭の中に常にありました。

——8月15以降、アヤノさんの周りの方の様子はいかがでしたか?

知り合いの中では戦争が終わった気がしない、という意見もありました。そこで「戦争はもう終わったじゃないですか」というと、「戦争に負けたのであって終わったのではない」と言ってましたね。

 

造幣局での仕事と生活

——それにしても、松山でずっと過ごしてきてそこから、東京の造幣局に、というのは本当にすごいことですよね。

よっぽど挺身隊に入りたくなかったのでしょうね。それで行ったこともない東京での造幣局の試験を受けたのだと思います。

——造幣局ではどのような仕事をされていましたか? また予想もしていなかったような仕事内容というものはありましたか?

お札に番号が入っているのです。その番号が抜けていないかどうかといった調査をしたり、100枚ずつ一束にして紐でしばったりしていました。これらは私がいた場所での仕事内容でした。印刷に従事していた方もいましたし、紙をお金の大きさに合わせて切っている方もいました。

造幣局では外国のお金も刷っていたのですよね。なぜ日本が外国のお金を印刷しなければならないのかと思いましたね。どこの国のお金だったかは覚えていないですね。

お札の隅あたりが切れていたことがあるのですが、そういった場合は端切れを探し出すまで帰ることができなかったですね。またその日に出たゴミはその日に片付けることができませんでした。次の日の朝にゴミ捨て場に持っていくのです。

——アヤノさんの同期の方は何名くらいいらっしゃいましたか?何十名もいらっしゃいましたか?

はっきりとは覚えていないのですが、40〜50人はいたかもしれません。先ほど話に出ました松山からのもう一人の男性、その方は造幣局の中にある食堂に配属されましたね。最初はわからなかったのですが、話をしていく中で同じ松山から同時期に入ったということがわかりました。食事をとりに行くときは5名1グループで当番を決めていました。その当番がとりにいくようになっていたのですが、同期ということがわかってからは私には多めにご飯やおかずをついでくれるようになりました。5名分で良いところを7名分くれたり(笑)。この東京で偶然にも同郷の方とと会うことができるとは、と感銘を受けたことを今も覚えています。。

——食事は無料だったのでしょうか? それとも安い値段で提供されていたのでしょうか?

食費代は徴収されませんでしたね。当時の給料は20円でしたが今の価値で考えると20万円くらいかもしれません。お給料は他に比べると高かったと思います。

——当時の物価はどんな感じだったのでしょうか?

たとえばソラマメが。これを炊いて少し甘く味付けしてお皿に入れて販売している場所があったんですが、それが一皿5銭でしたね。

 

思い描いた日本の未来と現実との狭間で

——戦争後68年(取材時)が経ちましたが、当時、60年、70年後の日本はどうなっているのかと考えたことはありましたか?

それはありましたね。ただ自分がおばあさんになることは思っていなかったですね。ひ孫からは「ひいばあちゃん、ひいばあちゃん」と呼ばれますが、誰に言っているのかわからないときがありますね(笑)

——当時描いていた未来と、実際の現在を比較してどのように思われますか?

もっと平和な良い国になると思っていましたけど、私の考え違いだったかもしれません。

——なぜですか?

もっと人間がおだやかで、もっと一人ひとりが親切で、もっと国が平和であれば良いと思っていました。でも実際は全然違う。
残念ながら今は自分本位で生きている人が多い感じがします。だからひ孫にも言っています。「みんなに好かれる人間になりなさい」と。

——いろいろな取材を続けていると、終戦直後はが「国を良くしていこうう」「戦争は二度と嫌だ」という雰囲気が国民全体に行き渡っていたように感じます。でも、アヤノさんのお話をうかがっていると、それが途中で変わっていってしまった。そう感じます。、

残念ですが、日本が良い時代は終わったような気がします。これからは下っていくような気がしてなりません。(了)

(インタビュー/早川洋平 文/若松よしの)

※このインタビュー音声は、かねてからキクタスの音声制作・編集パートナーである中川一さんの編集により配信させていただいております。また、ダイジェスト文章は、若松よしのさんがまとめてくださっています。多大なるサポートにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。