記憶12 橋本 代志子さん

被害者であると同時に加害者
戦争について正しく伝えたい

Hashimoto Yoshiko 橋本 代志子さん

はしもと・よしこ/1921年生まれ
江東区にある東京大空襲・戦災資料センターにて空襲の体験を語る

当時24歳だった橋本代志子さんは、東京大空襲で両親と妹を失った。戦後になってもその日のことを忘れたことはなかったが、辛すぎる経験を人に話すことはできなかった。しかし作家の早乙女勝元氏と出会い、戦争の記憶を正しく伝えるために運動を始める。代志子さんが語り部として活動している「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)にてお話を伺った。

東京大空襲の記録を残す

——代志子さんはこちらの「東京大空襲・戦災資料センター」で、空襲にあわれた体験談をお話しされているそうですね。いつ頃からどのくらいの頻度で話されているのですか。

数えたことがないのでわかりませんが、命ある限り続けなければと思っています。知らないうちにここに導かれて体験談を話すようになりました。それは、空襲で亡くなった方々の「忘れられては困る」という思いがあったからではないかと最近になってつくづく考えます。
東京大空襲は2時間半で10万人もの人が亡くなりました。この事実を知っている人はそう多くありませんし、まだまだ正しく伝わっていないと感じます。若い人からは、「日本はどこと戦争したの?」という質問が出たりしますしね。
戦争は二度と起こしてはいけない。これだけは絶対に言い終えて、私はあの世へ行きたいのです。

――恥ずかしながら私も東京大空襲がどのようなものだったのか具体的には知りませんでした。東京には100回以上の空襲があり、1945年3月10日の「東京大空襲」では10万人以上の方が亡くなったと。この大空襲は、単独の都市の空襲としては世界最大規模だそうですね。代志子さんが体験談を伝えるようになったきっかけは、どういうことだったのですか。

私も両親と妹を空襲で失いました。その日を忘れたことはありませんし、空襲で大変な目にあっていることはわかっていました。でも、人の前で体験を話す勇気をなかなか持てずにいました。
最初のきっかけは、早乙女勝元さん(反戦・平和をテーマにした作品が数多くある作家。1971年にルポルタージュ『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』を発表。)にお会いしたことです。江東区の図書館で、人手が足りないというので児童室のお手伝いをしていたのですが、そこへまだお若い早乙女先生がいらっしゃったのです。東京の空襲について調べに来られたのだそうです。
早乙女先生がおっしゃるには、長崎・広島には原爆の資料館があるけれども、東京大空襲を伝える資料館はない。だから、ほとんどの人が知らずにいる、と。
「橋本さん、ごらんなさい。こんなにたくさんの本があっても東京大空襲についての本なんて、ほとんどないでしょう?」
確かにそうなのです。それで、早乙女先生は記録を残そうとあちこち話を聞きに行かれていました。でも、話してくれる人がいないんです。遺族の方に聞いても「思い出したくない、話したくない」と言われてしまったりしていたそうです。
私もこれまで話す勇気はなかったけれども、こんなに熱心に取り組んでくださる先生がいらっしゃるのだから、お話ししようと思ったんです。夏の暑い日でした。私の話に耳を傾け、涙ぐみながらノートにペンを走らせていらっしゃった姿をよく覚えています。
そして、「橋本さん、東京大空襲の記録を残す運動を一緒にしませんか」とおっしゃったのです。ぜひとも東京大空襲の話を本にして出版しようと。

――こちらにある『東京大空襲 戦災誌』全5巻(東京空襲を記録する会 講談社)を作られたのですね。

この本作りが原点で、空襲の記録を残す運動が広がっていきました。
考えてみれば東京大空襲で亡くなった人の3分の1は江東区民であったにも関わらず、江東区にはお地蔵さん一つありませんでした。そこで私たち主婦はお社づくりの運動を始めたのです。でもこれはなかなか大変で、10年かかりました。
小さいながらもそういったことはやってきましたが、残念ながら東京には資料館一つありません。
おかげさまでここ(東京大空襲・戦災資料センター)は、みなさんの寄付で建ちました。こちらを訪れる若い人の層は、高校生、中学生、小学生とだんだんに幅広くなってきています。戦争というと、「日本はやられた」「ひどい目にあった」ということがクローズアップされがちですが、日本は単に被害者だったわけではありません。同時に加害者でもあり、絨毯爆撃(地域一帯に無差別に行う爆撃)を重慶でやっていた事実(日中戦争)があります。戦争の原因にしても、貧困だけではなく、いろいろな要素があります。若い人たちにはそういったことを含めて正しく知ってほしいと思っています。そのためにも、情操的なことを育てるのは大切でしょうね。

――「情操的な」とは、たとえばどのようなことでしょうか。

相手の立場に立つとか、労働の美しさとか。人を愛する心を育むのが一番ではないかと思います。

――そういった情操的な部分は失われつつあると感じますか。

大人の責任が大きいでしょう。私は本で子どもを育てましたが、音楽でもいいし、いいと思うものを与えていくことが大切だと思います。

100回以上の空襲も、みんなそうなのだからしょうがない

(空襲前の写真を見せて)これが私の家族です。このとき私は24歳。妹が三人いました。私の下がチエコ19歳、その下がエツコ。この子が末っ子です。
うちはメリヤス工場を経営していました。戦争で企業合同させられて、立ち行かなくなってやめてしまいましたけど。
男の子がいなかったので、私が跡取り娘として手本になるようにと、母はものすごく厳しかったです。私は活発な子で、何かというと反発する気持ちがありました。のびのびと生きたいのに、当時はそういうわけにいかず、たくさんの矛盾が感じられましたから。あんな活発な娘のところに、誰が婿になんか行くんだと言われていました。

――このときご結婚はされていたんですか。

結婚は21歳のときにしました。夫になる人は南支派遣軍といって、ベトナムのほうへ兵隊に行っており、日本に帰ってきて結婚したんです。その3か月後にまた招集されました。運よく元気に帰れましたけど、落ち着く暇なんてなかったですね。結婚も大変な時代でした。

――当時はどういう経緯で結婚にいたることが多かったのでしょうか。

恋愛なんてしている暇ありませんでした。周りの友達に聞いてみると、お見合いの場合もありますし、息子が兵隊に行くから、その前に結婚させてやりたいという親心でという場合もあります。男の人も気の毒ですよね。

(写真を見せて)これが主人です。私より9歳上です。だから私のことは子ども扱いですよ。でも常に兵役というものがついてまわっていたんですからねぇ。帰ってくると戦場の様子なんかを聞かせてくれました。軍隊は恐ろしいと思いました。戦争になったとき若い人はどうなるのかということは、知っておくといいですよね。
私の主人は青春時代の大半を戦争とともに過ごしています。「お国のために」と戦死した人もたくさんいました。
女の人は、18歳になるとほとんどの場合軍需工場へ行かなければなりませんでした。品物も統制があって大変でしたね。私はお乳が足りなかったのでミルクを買っていたのですが、まず病院に行って母乳の出が良くない証明をもらわなければなりませんでした。そのうえ、隣組の組長さんの判子がいる。区役所の判子がいる。それでやっと一缶のミルクを買うことができたんです。
この写真(「戦災孤児収容所の子どもたち」を撮った写真)を見てください。みんなガリガリに痩せていて、お腹がポンと出ているでしょう?栄養失調です。こういう子たちが人のものを盗って食べたって、何とも言えませんよね。二度とこういう思いをさせたくないと思います。だから、もっと大人は子どもにきちんと戦争のことを伝えなくてはね。

――無関心が一番良くないですよね。

でも明るく育てなければなりませんしね。あまり小さい子にはかわいそうな話はしないです。こちらに来るのは小学校6年生とか、戦争のこともちゃんと理解できる年頃の子ですから話しますけど。
あの頃はお風呂に入るのも大変でした。石鹸もタオルもありませんでしたから。でも、子どものために闇市で二倍も三倍も高いものを手に入れるわけです。そしてお風呂屋さんに行くんですが、とてもノンビリなんてしていられません。石鹸やタオルが盗られちゃいますから、目が離せないのです。

――東京は空襲が100回以上あったわけですが、ご家族や周りの人はどんな様子だったのですか。死と隣り合わせのように感じていたのでしょうか。

あまり深刻には考えませんでした。みんなそうなんだから、しょうがないのよという感じ。天皇制というのはすごいと思いますね。

――すごい?

油物なんかあったとき、食器を新聞紙で拭くでしょう?でも、天皇の写真がある部分は別にしておくのね。そのくらいだから。

「とにかく生きなければ」戦後に感じた命の大切さ

私はいまだに、もっといろいろ知っておけばよかった、勉強し足りなかったと思います。考えることは山のようにあるんですよね。逆に、若い人に戦争についてどう思うか聞いてみたいです。
私は戦後の焼け野原で無一文になって、「私の国っていったい何なのだろうか」というのが最初に考えたことでした。

――そのときはどのような答えを出したのですか。

とにかく生きなきゃということでした。生き残った嬉しさ、命の大切さを感じ、亡くなった人のためにも生きなければと思いました。とにかく何でも食べましたよ。ザリガニなんて毎日食べていました。タニシやイナゴ、バッタも。

――ある程度普通に食べられるようになったのは戦後どのくらい経ってからでしたか。

だいぶ経ってからですね。戦後もしばらく食糧難でした。百合の根っこも食べましたよ。今は高級食材ですけど。主人が農村育ちだったので、草やキノコに詳しく、生きる力になりました。とにかくよく生きてきましたねぇ。「生命力がすごいね」ってみんなに言われます。しっかり「生きる」ということを子どもに教えなきゃダメね。

――「生きる」という言葉の重みが違いますね。

とにかく90いくつまで生きてきたことは事実。お友達には「どうしてそんなに若々しく生きていられるの」と聞かれます。気力は大事ですね。
子どもにはよく「地球がはじまって以来ずっと続いてきた命というものを、考えたことある?」って聞くんです。「ない」って答えますけどね。だって繋がっているんですよ。こんなに不思議なことないですよね。

――今回こうして「戦争の記憶」をお聞きするようになって、生きてきた方々がいるから自分たちがいるのだということが身に沁みてわかるようになりました。

本当にそうね。私は今、鶴を折っているの。(折り紙の鶴を手に持ち、尾を引っ張って羽ばたかせて見せる)私の鶴は羽ばたくのよって子どもに言っているんです。正方形の紙が鶴になって、しかも羽ばたくってすごいわよね。日本の文化ですね。
大事にしなければならないものを、みんな大事にしなすぎると思います。

――この写真は何ですか?

(何枚かの写真を見せながら)空襲で亡くなった方の遺骨です。みんな亡くなってしまったから、引き取り手がいないのです。この写真の子は、お釜を持って逃げました。30分くらいでは何も話せないので、写真を持ち歩いているんです。今日みたいに落ち着いて聞いてくださるといろいろ話せますけどね。
これは母子手帳。昔は「妊産婦手帳」と言ったんです。当時は父の名前を書くようになっていて、夫の名前を書く欄がなかったの。家父長制だから。
炭団(たどん)なんて書いてあっても、今はわからないでしょう?炭と土を混ぜて丸め、乾燥させた燃料のことです。
この体力手帳というのは、兵隊を養育するための手帳です。こっちは軍隊手帳。主人が持っていたものです。

――代志子さんのお話を伺って、子どもにどう伝えるかがとても大切だとあらためて感じました。

そうですね。話さなければならないことは山ほどあると感じます。私なんかはじきにあの世へ行きますけど、これからの子たちを戦争になんてやれませんよ。

戦争が終わって本当に嬉しかった

――空襲の話に戻りますが、3月10日は、夜中に始まったときからそれまでの空襲と明らかに違う感じがしたのでしょうか。

いいえ。それまでも毎日のように飛行機が来ていました。戦略を練っていたのでしょうね。何を考えていたのか、私には到底わかりません。いまだにどうしてかしらと思います。

――玉音放送は聞かれましたか?

疎開先の千葉県で聞きました。男の人は涙ぐみながら聞いていましたね。私はすごく嬉しかったです。戦争が終わったということが。
夫は中国の戦争を見てきたので、戦争に負けることがどういうことかわかっていました。日本軍もひどいことをしていたわけですから。日本も同じようにやられると思いました。男はみんな髪を短くし、自転車に荷物を積んで国道を真っすぐ新潟県のほうへ行きなさいと言われました。米兵が入ってきたら大変なことになるからと。その矢先にあの玉音放送だったので、私は嬉しくてうれしくて。

――天皇陛下の声はよく聞こえましたか?

よく聞こえませんでした。いまだに何を言っているかわからないでしょう?日本はもっと文化的でなければダメねぇ。
それでまた、その後が大変だったわけです。みんな仕事がないですから、闇市をやるんです。いいとか悪いとか言っていられません。雑草も食べましたし。

――最後にこれをお聞きの方に一言メッセージをお願いします。

命を大事にしてください。それが私の伝えたいことです。(了)

(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子)

※このインタビュー音声は、かねてからキクタスの音声制作・編集パートナーである中川一さんの編集により配信させていただいております。また、ダイジェスト文章は、小川晶子さんがまとめてくださっています。多大なるサポートにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。